2018年9月11日火曜日

『ディストラクション・ベイビーズ』-「狂気」を描くことの不可能性

 『宮本から君へ』のドラマ化で名前を覚えた真利子哲也の劇場作品として評価の高い本作だが、結論を言えば期待外れだった。『宮本から君へ』の高評価がハードルを上げてしまった。
 単に暴力的な描写に不快感を催したとか、感情移入できる登場人物がいないとか、それもそうだが、問題は「期待外れ」だ。
 溢れる暴力衝動によって喧嘩に明け暮れる男の「狂気」を柳楽優弥が演じている、ということらしいとは事前に知っている。実際見てみると、菅田将暉が絡んでくる車による移動が物語に一応の「進行」を感じさせるものの、結局は最後までひたすら暴力衝動によって動機不明の喧嘩を繰り返す男の話である。とすれば、そういう設定の中で考えられるエピソードのバリエーションとその描写によって観る者に呼び起こす感情の強さが映画の価値になるはずだ。
 そういう意味では、これはゾンビ映画やソリッド・シチュエーション・スリラーや、最近見た『アリスのままで』と同じだ。アルツハイマー病が進行していく時にどんなことが起こるのか、という設定があるだけで、あとはそこにどんなエピソードを描くのかが問われる映画と、とにかく喧嘩に明け暮れる男の狂気を描くという設定があるだけの映画は、基本的な作劇法が同じなのだ。
 そして、描きたい「狂気」を「ちゃんと」描こうとすると、このテーマはゴア・ムービーになってしまうはずだ。個人的な趣味としては、そんなものを見たいとは思わないが、それはそれでまっとうなテーマの追求ではある。そうでなければ真っ当な格闘映画にでもなるしかない。ひたすら強さを追求する男の話。
 つまりこの設定で「狂気」を描くのは難しい、というか本質的には不可能なのではないか。
 それが露わになってしまうのは、リアルさをどう観客に感じさせるかという課題に、この映画が本気で応えていないと感じられる場面だ。これが致命的だった。
 たとえば主人公の回復ぶりがどうみても不自然なのはどうしたものか。ここに、主人公の体が少しずつ壊れていくような描写があれば「狂気」も感じられるのだが、したたかに痛めつけられた後には、ケロッとして復讐する展開になる繰り返し。そのしつこさが「狂気」と言いたいのだろうが、つまり暴力が危険であると感じないのだ。
 例えば歯が折れたり、拳の骨が見えてしまうという描写がある割には、そうしたダメージが蓄積していく様子はない。つまり人体へのダメージも「記号」としてしか描かれていないのだ。
 あるいは屈んだ相手を蹴るときに、サッカーボールキックで顔面を狙うのではなく、胴体を狙って体ごと押し倒すように蹴るというのは、つまりは真剣勝負ではなくプロレスなのであって、それでリアルに感じられないところにどう「狂気」を感ずればいいのだ。
 小松茉奈が菅田将暉を殺す場面も、車のドアに挟んで何度もそれを閉めることで致命傷を負わせるなどと、無理にもほどがある。頭部のみを挟んで、かなり強い衝撃を与えるなどという描写が具体的にないと、激情に駆られていますという演技だけでそうした「狂気」は滲み出るものではない。
 こうしたリアルな肉体的感触をないがしろにしてこの映画は何を描こうとしているのか。
 この映画で描かれる行為としての「喧嘩」のほとんどは、「喧嘩」と呼ばれながらも、闘争としての「喧嘩」ではない。単なる暴力である。たとえば無抵抗の相手を執拗に殴ってしまえば、それは危険と隣り合わせの充実感ではなくなる。
 一度は強い相手として描かれたヤクザの「兄貴」に、リベンジマッチでカウンター・パンチを決めて両拳を突き上げる場面のカタルシスは一時のものであって、あれがこの映画が描こうとしている暴力衝動ではないらしい。ではそれが目指している方向には何があるのか。単なるゴア・ムービーになる以外に。
 たとえばこうした「狂気」がどこから生じているのかといった、人物の「背景」を描くことで物語に厚みを与える、という方向もあるのだろうが、それをとろうという気配はない。別にそうでなければそれでいい。それならばひたすらリアルにその「狂気」を描けばいい。単なるゴア・ムービーに向かってしまうような破壊衝動ではない暴力に惹きつけられるとすれば、そこに何かの喜びを感ずるという描き方になるのだろうし、実際に喧嘩を楽しんでいる描写があちこちにあるにも関わらず、そうした暴力の悦楽が「狂気」と感じられるほどに鬼気迫るものではない。
 たとえばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』はそうした「狂気」を描くことのバランスがわかっていた。のめり込むことが破滅につながることがわかっていて、そこに惹きつけられていく主人公の「狂気」と愉悦が描かれていた。『グラン・ブルー』を観た時に思い出した小山ゆうの『スプリンター』や、古くは『あしたのジョー』でもその「狂気」にひりひりした危険を感じながら、読者はその破滅につきあってしまう。
 ネットでは柳楽優弥の演技を評価する声が高いが、それには賛成も反対もできない。表情や佇まいに「狂気」が漂う、式の評価はまあわからなくもないが、それに感情が動いたりもしなかった。このあたりは浅野忠信の演技がちっともうまく見えないのに、世の中的には評価が高いことに違和感を覚える感じに近い。そこに感銘を受ける人もいるのはわかるが、筆者にとってそこが感動ポイントではないということだ。これは個人的な好みの問題で、しょうがない。ただ、この映画の作劇上のスタンスに納得できないのだ。

 作劇上の不満と言えば、小松茉奈のホステスによって描きたいものが何なのか、まるでわからなかったのも気持ちが悪い。
 菅田将暉がどうしようもなく不快な人物として描かれるのはわかる。「狂気」によって感染した者が、それについていけずに破滅するというのは、つまりは主人公の「狂気」を描くことになるんだろうが、ではホステスが不快な人物として描かれることによって、何が描かれているということになるのか、どうにもわからない。単に観客に不快を感じさせたい、つまりそれが何かドラマチックであるかのような作者の勘違いなんじゃないかという疑いを、どうにも否定できない。
 作者がリスペクトを表明し、どうみても参考にしてもいる新井英樹の『ワールド・イズ・マイン』の三人組に照らし合わせば、このホステスはマリアに対応することになるのだが、かのマリアが体現している人物の強烈な存在感とリアリティと、時にリアリティを無視して描かれる聖性が体現しているおそるべき魅力に比べて、この不快なホステス登場させることで何が描きたいのか、その必然性が結局まるでわからない。
 そして『ワールド・イズ・マイン』における暴力は、まっすぐに大殺戮に向かっていくのであって、こうなる以外に「暴力の狂気」をどう描くというのか。なおかつ『ワールド・イズ・マイン』の暴力は、その狂気性を描いているのではなく、むしろ聖性をこそ描いているのだと思われるが。

 池松壮亮が出てるのは『宮本から君へ』へ続く真利子人脈なのだなと納得したが、それより、あろうことか北村匠海があんな役で出ているのかと、驚いた。そしてそれが『ゆとりですがなにか』と同じ年で、次の年に『君の膵臓を食べたい』が撮られているのかと思うと、最近観たばかりのその落差にクラクラする。

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