2019年8月15日木曜日

「I was born」を「読解」する 2 -小さな「読解」を体験する

承前

 さて、大きな読解に臨む前に、小さな読解を体験しておく。前述の「部分的な関連性」である。
C 第三聯、すれ違う女の腹を見ることを、「僕」はなぜ「父に気兼ね」するのか。
日本人としては、他人をむやみにじろじろと見るもんじゃない、という躾はそれほど珍しいものではないから、そうした躾を「僕」も受けているとすれば、この「気兼ね」には特別な不思議はない。とりわけこうした気遣いがマナーとして求められるのは、相手が何かしら通常の状態から外れていると思われる時である。奇妙な風体であるとか奇矯な振る舞いをしているとか、あるいは老人、障害者。つまり相手が何らかの社会的弱者であるほど、そうした気遣いが必要とされる。妊婦は、そうした文脈で気遣いを必要とする対象だろうか。
 確かに妊婦は全く通常の状態(誰にも共通する状態)ではなく、しかも保護されるべき存在である。これをいたずらに好奇の目で見ることは控えるべきである。
 だがこの詩でわざわざ言及される「気兼ね」は、この詩の文脈に沿って理解される必要がある。「英語を習い始めて間もない頃」から、「僕」は中学生であろう。そうした年頃の男の子と父親の関係として、性に関する話題が微妙に忌避されることはありうる。つまり、相手に対する関心を隠したい心理として、老人や障害者とは違った、性を連想させる対象として、妊婦に対する関心を隠すべきではないかという心理が、「僕」にはたらいていると考えるのが自然なのではないか。
 さらに、この詩のテーマが、先走りして言ってしまえば「生命」である以上、妊婦は生命誕生の象徴であり、それを単なる興味関心の対象としてではなく、崇高なものとして敬虔な態度で相対しなければならないという無意識の配慮が少年にはたらいているとも考えられる。そのような配慮が父親に理解されるだろうかという危惧がこの「気兼ね」に表れているのかもしれない。
 整理して示そう。

a 一般的なマナー違反にあたることを危惧して。
b 性的な話題に対する父親との距離をはかりかねて。
c 「生命」を扱う際の態度への配慮から。

 aは詩の外部にある「常識」の文脈において「気兼ね」を考えている。bは詩の設定と一般的な親子関係に文脈を見出そうとしている。cは詩全体のテーマとの照応関係で理解しようとしている。
 こうして、細部の表現を、文脈の中で捉えるのが「読解」である。

 次の問いはどのような「読解」を生むか。
D 第二聯、僕と父はどのような事情で寺の境内を歩いていたか。
これは、わざわざ問いとして立てなければ読み流されてしまい、注意深く読んだ者だけがそれに気づく、というような設定についての「読解」である。
 二人は、亡き母親/妻の、盆の墓参をしたのである。これは、頭から第二聯に読み進めた時点では考えつくことのできない解釈である。第六聯の終わりに母の死という情報が読者にもたらされ、それと「夏」と「寺」という情報が結びつくことで、初めて思いつくことができる。第二聯という冒頭近い箇所に、終わりで解決する伏線が張られていたということになる。
 詩の冒頭近くの「或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと」という状況設定を、読者はほとんど読み流してしまう。ドラマが展開するまでは読者の注意はそれほど喚起されない。それを有意味化する情報は後から知らされ、その時にはもう冒頭近くの情報を忘れてしまっている。再読の際に、全体の情報を参照して、「夏」と「寺」という情報の提示を、意味あるものとして読むことで、初めてこうした解釈が生まれる。こうした思考こそ「読解」である。
 この解釈は、詩全体の解釈に何をもたらすか。
 既に詩の冒頭から、少年と父親と念頭には、亡き母親/妻が想起されているのである。二人の間には存在しない母/妻を巡る微妙な緊張があるということである。以下のやりとりも、そのような心理状態を前提として解釈しなければならない。
 「僕」の思考のあれこれも、妊婦に端を発したというよりも、もともと想起されていた母親から、ゆき違う妊婦への関心が喚起されたと考えるべきである。読者の中ではこの妊婦が最終的に亡き母のイメージに重なってくる(この詩の鑑賞の中には「この女は母の亡霊である」といった評言さえある)が、少年にとってはそれは当然の思考回路なのである。
 同時に、例えば先ほどの「気兼ね」についても別の解釈の可能性があることに気づく。妊婦を見ることで、自分が母親を恋しがっていると父親が心配することを「僕」は気にしているのではないか、という解釈(d)である。
 この解釈の妥当性は、この時の二人に、亡き母親/妻が共通の想起対象として認識されているという状況を意味あるものとすることで保証される。一方で、「僕」と父親の間で母親の話題が普段どのように扱われているかという情報が詩の中にないため、それを確信するほどの妥当性はない。ともあれ先の問Cに対する第四の解釈dは、実は多くの読者に支持される説得力を持っているはずだ。
 また、「僕」の言葉を聞く父親も、そこから妻の死を連想したわけではない。亡き妻が先に念頭にあり、そのうえで「僕」の言葉を受け止めたのだ。そのような前提であらためて詩全体を解釈しなければならない。
E 第六聯、父親が、「(蜉蝣が)何の為に世の中へ出てくるのかと…ひどく気になった」のはなぜか。
「気になっ」て友人に話したからこそ、友人が蜉蝣を拡大鏡で見せてくれたのであり、物語の展開を用意するための理由付けになっているという意味で必要な記述であるため、ここにそれ以上の意味を見出さなければならないような謎は感じない。だがここにも「なぜ」と問うてみることで読み過ごしていた「読解」が可能になる。
 「生まれてから二、三日で死ぬ」蜉蝣が「一体、何の為に世の中へ出てくるのか」という疑問とも慨嘆ともつかぬ関心は、それから間もなく息子を産んですぐ死んでしまった妻と結びつけて解釈しなければならない。物語の展開上の必要のための動機としてではなく、父親の心理として、どのような事態がその「問い」を胸に宿らせたのか、と考えると、結果としての妻の死から遡って次のような想像が可能である。
 妻の死が出産に因るものであることは、母親の隠喩になっている蜉蝣の生態からも明らかである。そしてこの「問い」を抱いているのは、妻の臨月の時期である。すると次のような事態が考えられる。そこでは医師から、出産に伴う母体の危険が夫婦に告げられていたのではないか。
 とすると子供の誕生をとるか母体の安全をとるかという厳しい選択に夫婦が直面して、母体の危険をおしてでも出産するという選択を二人がしたということになる。その選択に対する迷いが、蜉蝣の生の意味を父親に問わせているのではないだろうか。
 こうした想像は単なる穿ち過ぎだろうか。もちろん妻の死があらかじめ可能性を予見されたものであることを排他的に根拠づける決定的な論理はない。その死が不慮のものであっても論理的な齟齬はない。だが「ひどく気になった」というテキスト内情報を有意味化するには、そのように考えるのが合理的であることは確かである。問題はこうした解釈がどれくらい「腑に落ちる」か、である。
 つまり父親は、抽象的な生の意味を問う関心に基づいて蜉蝣の雌の卵を見たわけではなく、妻の命をかけた選択の迷いを胸に抱いて見ているのである。そうした問いに対して、蜉蝣はどのような答えを与えたのか。
 これも、後からわかる情報との関連性を想定する「読解」の思考の好例であり、この認識によって、父親の思考をたどる上で重要な手がかりが得られるのである(以上の父親の疑問をめぐる解釈は、一緒に教材研究をした際に同僚の教諭に教えられた。問CやDはいわば定番の解釈に基づいているが、Eについての解釈は目にすることが少ない。しかも詩全体の解釈にかかわる重要な認識である)。

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