だがむろん、個々の文章の読解も、必要と思われる範囲で行っていきはする。そのためのメソッドとして最初にあげたいくつかの方法のうち、「発問」は、実際には個々の教材、個々の授業展開の中で多様であり、なおかつそれは授業の中での生徒の反応に応じて発想されたり変更されたりする可変的なものだ。
とはいえ、ある程度は「発問」を発想するための技法もあるともいえる。「水の東西」「『間』の感覚」で多用した「対比」を問う発問もそうだ。私見ではこれは評論を読解する上で最も汎用性がある強力なメソッドである。
さらにもう一つ、汎用性のあるメソッドである「この文章で提起されている問題は何か?」という問いを駆使した読解の実際例として、松浦寿輝の「『映像体験』の現在」の授業展開を詳述していこう。
「この文章で提起されている問題は何か?」という問いは、ある生徒たちには無論難し過ぎる。だからすぐに「この文章で作者が言おうとしていることを、疑問形で(文末に「?」がつく形で)言え。」と言い換える。
漠然と文章が「わからない」と感じているとき、その文章はどんな「問題」を提起しているのか、筆者は何について考えようとしているのかを自覚することはきわめて有益である。提起されている「問題」の「解答」を文中から探すばかりでなく、文章によってはむしろ「解答」から遡って「問題」を拵えることが必要になったりもする。つまり、「問題」と「解答」のセットを文中に探す読解は、相互に補完的な思考である。
だがそれだけではなく、さらにメタレベルで、こうした明確な目標をもった思考が読解そのものを促す、という意味でも、それは相互補完的なものである。文章が「わかる」から「問題」と「解答」のセットが括り出せるわけではない。それらをセットにして括り出そうとする思考が文章を「わかる」ようにさせるのである。だから「わからない」と感じているわけではない文章でさえ、そうしたセットが揃ったときに、にわかにその文意が明確になるのを感じられたりする。
この問いは、文章によって容易だったり難しかったりする。「絵はすべての人の創るもの」ならば、「我々は芸術に対してどのように向き合うべきか?」とでもいったところだろうか。これは答えから遡ってつくられる問いだ。何が書いてあるかがある程度把握されていて、それがどのような問題意識によって導かれた結論なのかを考える中で、「問題」としての上のような「疑問形」が想定されるのである。
これは生徒にはなかなか難しい操作である。だが、比較的容易な方法もある。題名を使うのである。「絵はすべての人が創るもの」ならば「なぜ絵はすべての人が創らなければいけないのか?」などと変形することで「疑問形」が得られる。「水の東西」ならば「水に対する感性は日本と西欧でどう違うか?」だ。
さて、「『映像体験』の現在」ならばどうだろう。とりあえずは「『映像体験』の現在とは何か?」と言えればまずまずだが、それよりも「『映像体験』は現在、どうなっているか?」と言えればなお良し、だ。この、「問題」の表現形は、「解答」との照応関係においてその適切さが判断される。「何か?」ならば「解答」は名詞であろうし、「どうなっているか?」ならば説明が対応するはずである。
この「筆者が言おうとしている問題を疑問形で言え。」は、文章全体に適用してもいいのだが、もう少し小さく区切った範囲に適用することもできる。
実は「『映像体験』の現在」では、この「疑問形」が、文中にそのまま見出せる。冒頭からしばらく「『映像体験』は現在、どうなっているか?」という問題意識で読み進められるのだが、3分の1ほどのところに「そうした中でどういうことが起きてきたのか。」という一文があり、さらに3分の1ほど読み進めると「こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか。」という一文がある。こうした疑問文を探させ、それに対応した筆者の結論を探させる、という形で読解を進めることができる。
論の展開を「疑問形」によって整理してみよう。
1 「映像体験」は現在、どうなっているか?最後の「どのように生きていったらいいのか?」については、それについての結論として筆者が否定する「生き方」と筆者が肯定する「生き方」を、文中からそれぞれ否定4箇所、肯定3箇所探せと指示する。
↓
2 そうした中でどういうことが起きてきたのか?
↓
3 こういう時代のただ中で、我々はどのように生きていったらいいのか?
否定されているのは
1.野原の現実を取り戻せである。全て文末が命令形になっているので、勘のいい生徒はすぐに見つける。見つかりにくければ文末の特徴に注目するようヒントを出す。
2.オリジナルへ戻れ!
3.オリジナルがただ一点あるだけだった前近代へ戻れ
4.イメージを捨てて現実に戻れ
肯定されているのは
1.イメージに取り囲まれながら、イメージそのもののただ中で、空虚ならざる映像のありかを探ってゆくである。
2.「アウラ」の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける
3.映像の氾濫の中で量に流されずに、豊かなイメージと貧しいイメージとを選り分ける感受性を鋭く研ぎ澄ましてゆく
疑問形のテーマ提示とそれに対する結論提示を、文中からこうして数を指定して探させることができる、という点で、この文章はきわめて「使える」教材である。評論読解入門期の練習問題として適切なのである。
松浦寿輝「『映像体験』の現在」を読む の項、次回へ続く。
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