2019年10月31日木曜日

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』-「スーパーマン」映画の不満

 ザック・スナイダーの「スーパーマン」映画、『マン・オブ・スティール』の続編なのだが、結論としては『マン・オブ・スティール』と同じ不満を感じた。スーパーマンと対立するバットマンやレックス・ルーサーJr.の動機も、充分に説得的とは感じられなかったし。
 ということで見所はバットマンと悪漢達の大立ち回り。バットマンの重量感とスピード感が素晴らしい。

2019年10月17日木曜日

『エスケープ・フロム・LA』-B級の味わい

 ジョン・カーペンターはもちろん『遊星からの物体X』だが、『ゴースト・オブ・マーズ』も、低予算ながら妙に盛り上がって面白かった覚えがあるし、テレビ放送なら。
 前世紀の映画にしてはCGががんばっているとはいえ、『ブレード・ランナー』のような、それより遙か前の映画があれだけの画面を作っているところをみると、やっぱりジョン・カーペンターってのはB級映画職人なんだろうなあ、と思う。
 でもやはり職人なのだ。なるほど、映画ファンが喜びそうな要素はいっぱいある。荒廃した未来のL.Aの街は、『ブレード・ランナー』よりは安っぽいとはいえ猥雑な映画的わくわく感を湛えているし、カート・ラッセルはふてぶてしい魅力で溢れかえっている。ステルス・スーツだとかいう黒い皮みたいな袖なしシャツもコートも決まっている。
 どういうわけで出てくることになったのか謎なピーター・フォンダと謎の波乗りをするところも、実にB級映画的高揚感だ。怪しい臓器売買業者(役所かも)も、これでもかと撃たれる銃もB級の味わいだ。地球上から電気的なエネルギーを無効化してしまうという無茶な結末も、カート・ラッセルの無茶ぶりによって成立しているが、とんでもない大災害、大惨事を引き起こしたはずで、そんなのどうでもいいと思えるところがB級だ。

2019年10月14日月曜日

『トーナメント(原題「Midnighters」)』-小品として満足

 TSUTAYAの棚で予備知識なしにパッケージの紹介だけで選ぶ。どうもSSSらしいのと、どこやらの小さな映画祭であれこれ受賞しているらしいのと、監督が「ウォーキングデッド」の監督だというので決める。
 さて、やはり低予算で作られている感じはありありだが、悪くない。必要なサスペンスは盛り込まれているし、許しがたいような不自然な登場人物の行動や演出はない。何よりラストのドンデン返しが見事で、こういう小品としては満足のいく鑑賞後感だった。
 それにしても毎度、邦題なのに英語という謎の販売戦略。ネットでも「どこがトーナメント」だというつっこみと、パッケージが内容とまるで違うという突っ込みが満載だが、まあ作品が良ければいいんじゃない? 邦題も、終わりまで見ると、ぎりぎり『トーナメント』とつけたくなった思考はわからないでもない。
 ところで結局わからないままの場面が二つあったのが気になった。

・主人公の夫が、死体の歯をハンマーで欠いて取り出す
・ロッジで荷物の受け取りを待っている間に、ロッジの前に自動車が意味ありげに止まる

 回収しきれなかった伏線だろうか。それなら編集の段階でカットしてもいいんだろうし。そうするとこちらが読み取れてないだけか。それはそれで許せない気もするし。

 ところで、「ウォーキング・デッド」の監督だという件は調べてみると意外なことがわかった。どうせ各話監督が違うんだから、フランク・ダラボン以外は知らないうえにどの人も立派な仕事をしている、というくらいにしかわからないのだが、本作の監督ジュリアス・ラムゼイが監督しているのは、シーズン4の12話「本気の杯(「Still」)」という、とりわけ好きで、観直してさえいるというエピソードだった。
 このエピソードに敬意を払うということで本作を観る価値は充分にあったのだった。

2019年10月5日土曜日

『ブレード・ランナー』『デンジャラス・デイズ』-映像と物語の落差

 むしろメイキングである『デンジャラス・デイズ』を観たくて、いつぶりかはわからないが多分3回目である『ブレード・ランナー』を観る。
 前に観た時に比べても、その歴史的な意味や影響力についてはわかっているつもりだったのだが、そのつもりであらためて観てみても映画的な感興はさして変わらなかった。 
 確かに世界観や画面の密度には目を瞠るものがある。この画面に収められた世界を作って、撮影しているのか、と思うと、すげぇなあ、と素直に思う。
 だがその「感心」は、当時観た人の感じた革新性への衝撃とは随分違うはずだ。それはもうデフォルトになってしまっているのだ。物心ついたときから未来は『ブレード・ランナー』的だったような気がしている。
 いや、そんなはずはない、とも言える。「暗い未来の映画」といえば1973年の『ソイレントグリーン』だが、あれは確かに『ブレード・ランナー』の濡れた街並とは随分違った未来像だともいえる。
 それでも公開の1982年以前から、ピカピカの未来都市に代表されるような未来像ばかりが刷り込まれていたわけでもない。大友克洋の「AKIRA」だって1982年連載開始で、それが全く未知の未来像に感じたかといえばそうでもなかったような気がする。それとももうそれを忘れているだけなのかもしれないが。
 だから人間ドラマ(「アンドロイドドラマ」と言うべきかもしれないが)に寄せて観ると、それほどの感興はないのだった。ハリソン・フォードのデッカードは、やたらもってまわった表現しかしなくてどうにも共感できないし、ルトガー・ハウアー演ずるロイは、物腰こそやたら魅力的だが、物語的な人物造型は観念的に過ぎる。
 最後のデッカードとロイの対決も、最近『ジェイソン・ボーン』シリーズを観たばかりなので、モタモタして実に観念的だ。勿体つけて重々しい空気は出しているが、スピード感も緊迫感もなく、行動としても現象としても不自然で実感できない。
 肝心のデッカードとレイチェルの恋愛はあまりに唐突で共感できないし、ロイがデッカードを殺さないで死ぬラストも、やはり唐突に感じた。物語は細部の積み上げで必然性を感じさせるものじゃないのか?

 さてお目当ての『デンジャラス・デイズ』はやはり興味深いのだった。メイキングの方が本編より面白いのはよくある話。
 もちろん「メイキング」がそれのみでは成立しないのも確かで、本編があってこその「メイキング」の面白さではある。小田和正の『緑の街』が『いつかどこかで』より面白かったのもしかたないのかもしれない。

 そして『ブレード・ランナー2049』を続けて観ようと思って、勢いが足りない。

2019年10月3日木曜日

『花とアリス殺人事件』『花とアリス』-横溢する映画的魅力

 たまたま乙一によるノベラズ『花とアリス殺人事件』を読んで、映画の方を観直したくなって、ついでに何年ぶりだかわからない『花とアリス』まで続けて観た。
 どちらも話としてはどうということもなく、初期の、物語の辻褄に気の利いた仕掛けをして見せる映画ではないのだが、どこもかしこも良い画と良い演出と良い演技がひたすら続く、映画としての快楽に満ちた映画だった。相変わらず。
 仕掛けも、ないことはないのだが、そこで感動するというわけでもなく、それよりもやはりそこら中に満ちた映画的魅力が強い。それは例えば蒼井優の魅力でもあるのだが、それを画面に定着できているところが岩井俊二のすごいところだと言うべきなのだろう。
 それにしても物語としてはどうも腑に落ちないところはいろいろあって、もっと考えると楽しめるところがあるのかもしれないとは思う。『殺人事件』の方の、湯田君がクラスの女子に婚姻届を配りまくっていたエピソードとか、『花とアリス』の「ナメクジ」とか「祭で見る幻」とか「海岸で拾った(別のトランプの)ハートのエース」とか「落研の先輩の高座が観客からブーイングになる」とか、どう考えたら良いのかよくわからない描写が、それなりに意味ありげに描かれるのを、それなりに解釈するともっと面白いのだろうか。大体こういうのは、岩井俊二が話すのを聞くと、本人なりには何らかの必然性があるような説明をするのだが、そういうのを聞いても、それほど大した「意味」ではないことが多いのだが。