2019年10月5日土曜日

『ブレード・ランナー』『デンジャラス・デイズ』-映像と物語の落差

 むしろメイキングである『デンジャラス・デイズ』を観たくて、いつぶりかはわからないが多分3回目である『ブレード・ランナー』を観る。
 前に観た時に比べても、その歴史的な意味や影響力についてはわかっているつもりだったのだが、そのつもりであらためて観てみても映画的な感興はさして変わらなかった。 
 確かに世界観や画面の密度には目を瞠るものがある。この画面に収められた世界を作って、撮影しているのか、と思うと、すげぇなあ、と素直に思う。
 だがその「感心」は、当時観た人の感じた革新性への衝撃とは随分違うはずだ。それはもうデフォルトになってしまっているのだ。物心ついたときから未来は『ブレード・ランナー』的だったような気がしている。
 いや、そんなはずはない、とも言える。「暗い未来の映画」といえば1973年の『ソイレントグリーン』だが、あれは確かに『ブレード・ランナー』の濡れた街並とは随分違った未来像だともいえる。
 それでも公開の1982年以前から、ピカピカの未来都市に代表されるような未来像ばかりが刷り込まれていたわけでもない。大友克洋の「AKIRA」だって1982年連載開始で、それが全く未知の未来像に感じたかといえばそうでもなかったような気がする。それとももうそれを忘れているだけなのかもしれないが。
 だから人間ドラマ(「アンドロイドドラマ」と言うべきかもしれないが)に寄せて観ると、それほどの感興はないのだった。ハリソン・フォードのデッカードは、やたらもってまわった表現しかしなくてどうにも共感できないし、ルトガー・ハウアー演ずるロイは、物腰こそやたら魅力的だが、物語的な人物造型は観念的に過ぎる。
 最後のデッカードとロイの対決も、最近『ジェイソン・ボーン』シリーズを観たばかりなので、モタモタして実に観念的だ。勿体つけて重々しい空気は出しているが、スピード感も緊迫感もなく、行動としても現象としても不自然で実感できない。
 肝心のデッカードとレイチェルの恋愛はあまりに唐突で共感できないし、ロイがデッカードを殺さないで死ぬラストも、やはり唐突に感じた。物語は細部の積み上げで必然性を感じさせるものじゃないのか?

 さてお目当ての『デンジャラス・デイズ』はやはり興味深いのだった。メイキングの方が本編より面白いのはよくある話。
 もちろん「メイキング」がそれのみでは成立しないのも確かで、本編があってこその「メイキング」の面白さではある。小田和正の『緑の街』が『いつかどこかで』より面白かったのもしかたないのかもしれない。

 そして『ブレード・ランナー2049』を続けて観ようと思って、勢いが足りない。

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