2017年8月27日日曜日

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 あるとき突然、テレビから「Forever Friend」が流れてきて、何事かと思ったら『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』がアニメ化されるという。しかもシャフトで、新保が総監督となれば『物語』シリーズだ。「まどマギ」にはまるでノれなかったが、ある程度の品質は期待していいだろうと、映画館に観に行くことにした。

 で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
 どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
 不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
 いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
 がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
 少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
 「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
 あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。

 原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
 それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
 だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
 せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
 残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
 わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
 それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。

 主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
 原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
 原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
 いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
 そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
 だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
 それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
 そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
 一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
 奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。 

 観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
 広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
 この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
 『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
 それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
 大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
 だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
 そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
 アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。

 もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
 原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
 一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
 タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
 だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
 タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
 タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
 それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
 そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
 そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
 原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
 制作者たちの罪は重い。

2017年8月25日金曜日

この1年の映画 -3年目

 ブログ開設3年目は、転勤で忙しくなったというような理由もないではないが、なによりブログの記事を書くことが負担になって、次の映画を観られないというような悪循環が続いた。どれもこれも、観てから記事を書いてアップするまでに2週間くらい経っているものばかり。観た日とアップの日付もズレまくっている。

 さて、この1年で観たのは次の50本。
 初年度は75本2年目は60本だから、さらにペースダウン。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『オブリビオン』 -どこかで見たSF映画
『ある子供』 -何が欠けているのか
『セッション』 -とにかく上手い
『エバー・アフター』 -「シンデレラ」のアナザー・ストーリー
『セルラー』 -巻き込まれ型サスペンスの佳品
『大脱出』 -考えるのが億劫な
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『レクイエム』 -ヴァン・ダム映画として充分、でも残念
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『ER~救急救命室』 -映画作りの層の厚さ
『首吊り気球』 -奇想の現前は遥か
『ツイスター』 -悪くはない娯楽作品ではあるが
『グラスハウス』 -質の低いサスペンス
『アパートの鍵貸します』 -すごいのに楽しめない
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『人造人間13号』 -軽く、軽く、ゾンビ物を
『バイオハザードⅣ アフターライフ』
『バイオハザードⅤ リトリビューション』 -不全感の残る大作化
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『君の名は』 -IMAXの力か
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『シカゴ』 -ミュージカル仕様
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『スティーブ・ジョブズ』 ー狂気と演説
『ハーモニー』 ーアニメが不自然を描く困難
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『アクロイド殺し』 -映画における叙述トリック
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『クローバー・フィールド』 -完成度の高い怪獣映画
『グエムル』 -奇妙なバランスの傑作怪獣映画
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『龍の歯医者』 -初舞城王太郎は
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『パーティクル・フィーバー』 -楽しくもドラマチックな科学ドキュメンタリー
『パーフェックト・ストレンジャー』 -面白さの想定が空振りしている
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程はマル
『アフター・アース』 -作られる必然性がわからない
『ある日どこかで』 -ロマンチックなタイムトラベルものだが
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い
『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?
『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…
『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画
『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画
『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『ER』『アクロイド殺し』『龍の歯医者』はそれぞれテレビ用に作られたもので、劇場公開作品ではないが、それも含めてようやく50本か。
 そういえば独立した記事として書いてないが『博士の愛した数式』を見直して、あらためてそのひどさに呆れたりもしたんだっけ。

 例によってベスト10を選ぼう。

『セッション』 -とにかく上手い
『オール・ユー・ニード・イズ・キル』 -文句のない娯楽作
『アメリカン・ビューティー』 -病んだアメリカへの寛容
『ドント・ブリーズ』 -満腹のホラー映画
『この世界の片隅に』 -能年玲奈のすごさ 価値あるアニメ化
『LIFE!』 -つぐづく幸せな気分になれる映画
『La La Land』 -圧倒的な演出力
『告白』 -精緻に組み上げられたミステリー映画
『コラテラル』 -展開のスピード感と余韻
『あの頃ペニー・レインと』 -隅から隅まで良い

 このうち3本は映画館で観たもの。1年目の最初の『マレフィセント』以来、2年目までは映画館に行っていなかったのだが、2年半ぶりの『君の名は』からこっち、この先はぼちぼち映画館での鑑賞も復活かもしれない。
 さて、上記は観た順で、評価順ではない。どれか突出しているかと見直しても、ベスト1は選べない。
 『オール・ユー・ニード・イズ・キル』『ドント・ブリーズ』のサスペンスも、『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』の多幸感と切なさも、『セッション』『アメリカン・ビューティー』『告白』『コラテラル』の上手さも大いに満足だが、もろもろの思い入れも含めると、この1年間では『この世界の片隅に』の年、と考えるのが良いのかもしれない。
 以下はベスト20で、上記と迷った作品。

『ゼロ・グラビティ』 -サスペンスを阻害するもの
『ヒット・パレード』 -多幸感に満ちた世界
『日本のいちばん長い日』 -重厚な画面に歴史の断片が現前する
『君の名は』 -IMAXの力か
『ジャッカルの日』 -淡泊で緊迫のクライム・サスペンス
『モンスターズ/地球外生命体』 -愛しい怪獣映画の佳作
『天国の日々』 -寡黙なドラマ、雄弁な風景
『天国と地獄』 -犯罪捜査の過程は丸
『アルゴ』 -過不足ない娯楽作
『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 名作の評価の高いものが多くて、それぞれさすがではある。あとはこちらとの相性。
 それぞれ、多幸感では『ヒット・パレード』より『LIFE!』『La La Land』『あの頃ペニー・レインと』だとか、上手さでは『ジャッカルの日』『天国と地獄』よりも『セッション』や『コラテラル』だったのだ。

2017年8月17日木曜日

『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『時間(原題「The Hours)』では題名として素っ気なさ過ぎるのはわかる。だからといってそれだけでは意味不明な邦題でもある。
 時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
 だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
 さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
 だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
 ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
 それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
 創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
 だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
 もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
 だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
 それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。

2017年8月13日日曜日

『アルゴ』 -過不足ない娯楽作

 『羊たち』に続いてアカデミー賞受賞作。
 だがこちらはそういう評価に違和感はない。まあこんなに臆面もない「映画」讃歌に最高の賞を進呈してしまうところに、映画界の身内びいきを見るようで恥ずかしい気もするのだが。
 それでも面白いことにはまったく異論はない。隅々までよくできていた。サスペンスは充分だし、成功のカタルシスは申し分ないし、台詞は粋だし、ペーソスも感じられる。主人公のベン・アフレックのかっこよさには惚れ惚れするし、登場人物たちがそれぞれの役割において輝く瞬間をきちんと描けているところもいい(アカデミー助演男優賞ノミネートのアラン・アーキン演ずる老映画プロデューサーの、気骨と矜恃と辣腕と少々の落魄はやはり味わい深かったが、個人的には台詞も「活躍」もほとんどない義勇の人、カナダ大使ケン・テイラー役のヴィクター・ガーバーの顔が実に良かった)。全体として、アイデアの密度が濃いという感触が、鑑賞後の満足感を与えてくれる。
 大いに満足して、でも何か大きな感動がないことにもいささかの不満足を感ずる。
 たぶんこれは個人的な問題だ。こちらの準備状況であり、相性の問題なのだ。

2017年8月12日土曜日

『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの

「アカデミー賞特集」みたいな放送で録画。
 3回目くらいになるか。
 以前の印象では、とにかく面白い映画であることは間違いないが、どうしてアカデミー賞を受賞するような評価のされ方をしているのかが腑に落ちないでいた。確かにレクター博士のキャラクターは強烈ではある。それでも、それがアカデミー賞などというはれやかな賞の評価にふさわしいという感じがわからなかった。
 今回、久しぶりに観て、やはりレクター博士の脱獄についてのシークエンスと、主人公クラリスが犯人バッファロー・ビルの家に入るシークエンスのサスペンスはさすがだった。どちらも観客の想像を誘導しておいてどんでん返ししてみせるという手法が冴えていた。
 とりわけ後者で、FBIが犯人の家に踏み込む過程と、クラリスが捜査のために関係者の家を訪れる過程と、犯人が家にいる過程を並行して描いておいて、どれとどれがどう接続するかという読者の想像がひっくり返る瞬間はお見事である。
 だがこのアイデアが空前絶後だというわけではなかろう。例を挙げられるわけではないが、他には見たことがないという印象でもない(乙一が小説では時折やっているが、それはむしろこの映画の影響かもしれない)。
 というより、こうした映画的うまさがアカデミー賞の評価の対象となるというのがどうもピンとこない。
 ではどういうのがアカデミー賞の評価になるのかといえばそれはそれで確からしい定見があるわけでもない。だがいつも作品賞を獲る作品には、何かしら「アメリカ的なもの」がそこに感じられるようにも思う。それはアメリカ的な幸せだったりアメリカ的な誇りだったりアメリカ的なトラウマだったり。さてでは『羊たちの沈黙』ではどこがそうなんだろう。
 やはりレクター博士とクラリス捜査官なんだろうか。主演男優/女優賞を独占したアンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターには納得だが、そうした演技の賜物というだけでなく、そもそも精神分析医が怪物であるという設定と、正義感の底に強迫観念があるという設定が。
 どちらにもキリスト教を背景にした文化的な刻印であるような感じもして、それに感応しない日本の観客には、この作品はやはり、よくできた面白いサスペンス映画でしかないのかもしれない。

2017年8月11日金曜日

『クライムダウン』 -山岳風景の美しいサスペンス映画

 題名は「下山」くらいの意味なんだろうが、これがまたしても邦題。原題は「A Lonely Place to Die」というのだが、そのままでいいじゃん。サスペンス映画であることはその方がわかるのに。
 さてまたしても「拾い物」狙いなのだが、これは良かった。
 登山パーティーが、山中に生き埋めにされている少女を発見して保護すると、謎の暗殺者に襲われて一人ずつ殺されていく。
 冒頭から前半部全体に、山岳や渓谷の風景が恐ろしく良く撮れてる。ふんだんな空撮はドローン撮影で安価になったからか、低予算映画にスケール感を与えつつ、山岳の高低差を感じさせて、既にサスペンスフル。森の中も、木々の与える遠近感がいちいち絵画のようだ。
 もちろんそれだけではなく、本筋のサスペンスの方も申し分ない。とりわけ撮影が。
 崖の途中で、上から下りてくる仲間を待っていると、ロープを何者かに切られて落下する仲間が、主人公の近くを落ちていくのを同一フレームに入れる場面とか、襲撃者から逃げる副主人公が山の斜面を転げ落ちるのを複数カットをつないだ編集で見せる場面とか、映画として実に芸のある撮り方をしていると思う。
 イギリス映画というのは、ハリウッド映画とヨーロッパ映画の中間的な味わいが「ちゃんと」ある。不思議なものだ。

 もちろんネット上の評判のように難もある。どういう設定かわからないから、ホラーなのかスリラーなのかと思ってみていると、思いのほか襲撃者が姿を現すのが早いように思えてちょっとがっかりする。一応それでも、いったんは「これが襲撃者たち?」と思わせておいたのが単なる密猟者で、それらをあっさり殺すのが本編にかかわる襲撃者たち、というような捻り方をするのだが。
 あるいは山で話を完結させればいいのに、半ば過ぎで麓の村に下りてしまって後は街中の追いかけっこになる。そこからは新味がなくなるのはいかんともしがたく、山で話を終えなかった脚本の構成が惜しまれる。山ならば主人公に、そうしたアドバンテージを与えて、それゆえの逆転劇を描けたのに。
 とまれ、先の展開を読ませないストーリーテリングは十分にサスペンスフルだった。ええっ! ここで仲間を殺しちゃうの? といった唐突さも、もったいないとはいえ、下手にべたべたしないところにスピード感もあって。

 主人公のメリッサ・ジョージという女優は、よく動くし演ずるし、良い女優だなあと思っていると、あれっ、思い入れ深い『トライアングル』の主演女優なのだった。ここでも思いがけない佳品に出ているか。

2017年8月10日木曜日

『ザ・ドア 交差する世界』 -拾い物のドイツ映画

 ドイツ映画だというので、例によってヨーロッパ映画の画面、空気感だ。画面の暗さも、適度なざらつきも、良い。こういうのを時々見たくなる。
 「午後のロードショー」枠で見るにふさわしい、大作、名作というわけではない、だが安っぽいというわけではない、まとまりのある、映画的小宇宙を体現した映画。「拾い物」というのは、こういう風に「午後のロードショー」とか深夜枠で偶然見るからいいのだ。期待値が低くて。
 5年前に戻れる洞窟のようなトンネルのような(「ドア」じゃないじゃん、という突っ込みは当然ある)暗い通路を通って、子供を事故で失くしていない5年前の世界に行った男の話。SFといえばSFにありがちなタイム・リープ物だが科学的な説明はまるでない。タイムパラドックスについて言及する気もなさそうだから、パラレル・ワールド設定なのだろう。
 だが、そういうものがあったとするとどんなことが起こるかについては、それなりに考えて、物語に組み込んでおり、よくできた脚本だと言える。終盤の、トンネルを通過した未来人たちが実は結構いるという展開がもたらすカタストロフも、苦いギリギリの悲劇を避けえたエンディングも、「拾い物」としての評価を十分に与えて良い。

2017年8月6日日曜日

『ジュラシック・ワールド』 -テレビで見たんじゃなぁ…

 もしかして、ものすごくよくできたエンターテイメントを見せてくれるんじゃないかと思って、テレビ放送で。
 だがやはりテレビではそれほど期待度の高くない予想の範囲内だった。映画館で、3Dでも4Dでもやってくれれば大いに昂揚するのかもしれないが。
 まあそつのない展開で、悪くないエンターテイメントではあった。が、映画的画の面白さが優先してリアリティという面では白けてしまうような展開があちこちにあって、どうもノリ切れなかった。
 たとえばクライマックスで、さあいよいよアイツの登場だぁ! というところで檻の前に主人公が立つのはダメだろ。それが映画的なサスペンスだというのはわかるが、そうなってしまった、ではなく、敢えてそうするとなるとどうにもリアリティが希薄になってしまって。

2017年8月4日金曜日

『心が叫びたがってるんだ』 -あんな逃避に納得できるのか?

 長井龍雪は「とらドラ!」「あの花」「あの夏」と見てきて、クオリティは知っているが、岡田麻里の脚本とのコンビも含めて、熱狂的に観たいという気になるわけでもなく、でも追っかけようかとは思っているという程度には評価している。
 だがこれはさすがに劇場映画で、アニメーションはどこもかしこもクオリティが高かった。原画のレベルも、動きも。
 そしてあちこちにちゃんと感動ポイントはあって、おおっ、なるほど泣かせる、とは思ったものの、全体としてはそれほど感心しなかった。
 考えてみるとこれも期待値が高いためにハードルが上がってしまったパターンで、しかもどうやら無意識に『聲の形』と混同していたのだった。あちらは声に出して意思を伝えられないことの深刻さが、機能的な条件として厳然としてある。『心が』の「喋れない」も、それと同種の身を切られるような痛みとして描かれるのかと思っていた。
 だが映画が進んでもそのようには感じない。
 そもそも幼児期の、声が出せなくなる最初のシーンが、幻想の玉子王子との会話、という形で描かれているところで、もう大いなる違和感を感じてしまって、あ、これはダメだ、と思ってしまった。
 狙いはわかる。喋れなくなる呪縛が玉子王子の宣言という形をとるのは、アニメーション的な表現としてはアリだと思ったのだろう。だが軽すぎる。思いが口に出せないことの苦しみが、肉体的な痛みとして感じられてこないのだ。
 その思いが、ある時に呪縛を断ち切って溢れ出すのが、題名が示す物語の方向なのだろうと、見る前から予想はつく。だがその呪縛を、こんなキャラクターの形で表現したのは結局のところ失敗だったと思う。主人公が言いたいと感じた時に、玉子が禁止をするといった形で描かれて、それが口に出せずに身悶えするような肉体的な表現として描かれないところが、結局のところ単なる逃避なのではないかと感じられてしまう。
 腹痛が「肉体的」?
 だがこれも「逃避」の代償に過ぎず、結局言い訳のように感じられてしまった。

 そうした不満が決定的に表れるのは、主人公が演劇発表の当日に逃避してしまうという展開で、ここに至っては本当に脱力するような失望だった。
 そんな身勝手がどうして観客の共感を得られると思っているんだ、岡田麿里は。どうしてそのまま作品にしていいと思えているんだ、長井龍雪は。
 言葉が他人(ひと)を傷つける、という、喋れなくなるそもそもの原因となる状況が描かれているわけではなく、単に失恋をしただけで逃げ出しているのだ。「他人を」ではなく自分が傷ついているだけだ。しかも表現することによって、ではない。「口に出さなくても言葉が体から溢れている」というようなとってつけたような説明があるのだが、じゃあやはり声に出しているわけじゃないじゃん、と思ってしまってまったく説得力はない。だから結局、逃避以外には感じられない。
 しかも納得できないのは、それがクラスメイトに許されてしまうという展開だ。こういうときに、過剰に理不尽に主人公たちを非難するクラスメートというのも定番のガッカリ演出だが、逆に、こんなふうに許すクラスメートだってどうして納得できるのだ。どうしてそんな展開に観客が納得できるのだ。
 そして肝心のテーマ「心が叫びたがっている」ことを、あんな廃墟のラブホテルでの「告白」でしか表現できないのか?
 ここは、「言葉が人を傷つける」という状況をちゃんと描いたうえで、発表から逃げ出さずに、だが思いを口に出さずにいることの表れとして、本番の舞台上で声が出なくなるという展開にすれば、題名の予想させるドラマとして成立するだろうに。
 予想を裏切ることが何か良い効果を生むように意図されているわけではあるまい。予想をなぞって、しかも演出の力でその予想を超えるだけの物語を見せてほしかった。

2017年8月2日水曜日

Special Favorite Music,Sugar's Campaign

 以前LUCKY TAPESやSuchmosを発見したように、Youtubeはこちらの好みそうな楽曲を目の前に差し出してくれる。「発見」どころではない。「据え膳」だ。
 そうしてSpecial Favorite Musicなんてバンドも、いつの間にか活動していたことを知る。


LUCKY TAPESかAwesome City Clubかというシティポップ。
 70年代の「はっぴいえんど系」、その正統後継としての90年代の「渋谷系」に続いて、20年周期でこういうシティポップのバンドがまとまって出てくるというのは、単なるこちらの「発見」の印象なのか、統計的に有意な傾向なのか。

 Sugar's Campaignも、この曲は大いにハマった。