2017年8月17日木曜日

『めぐりあう時間たち』-いずれ観直して

 『時間(原題「The Hours)』では題名として素っ気なさ過ぎるのはわかる。だからといってそれだけでは意味不明な邦題でもある。
 時代の異なった三つの物語が並行して描かれながら時折それらの関連が示される。関連があるから「めぐりあう」なのか。だが、そもそも「時間」がテーマになっているというのが、どうも腑に落ちない。
 だがとりわけ、三つの物語が提示される映画の冒頭の朝の場面で、三つのそれぞれの場面を連続するようにカットインする編集はうまかった。一つの物語の主人公が顔を洗って、顔を上げると鏡に映るのは別の物語の主人公。ある物語でテーブルに置かれた花瓶が、同じ画角で別の花瓶に重なったと思うと別の物語に入れ替わっている。
 さてこうした編集も、そもそもおそらく原作がそうなのだろうが、複数の物語を関連させて描くという手法に何の意味があるのか。それを採用しさえすればもう物語の成功は約束されているのか。そうであるようにも思う。「タイムマシン物(タイムトラベル・タイムリープ・パラレルワールド…)」が、それだけである一定の魅力を約束されるように。
 だがでは、どれか一つの物語ではいけないのか。それぞれの物語の、ドラマとしての強度は充分であるようにも感じられる。そしてそれぞれの物語が互いを照らし合うことで別な意味を帯びてくるような仕掛けがしてあるようにも思われない。例えば、1951年編のあの人物が2001年編のあの人物なのかとわかる瞬間の驚きはあるが、それで物語がどんなふうに読み直されるのか。考えなければ、にわかにはその効果がわかるようにはなっていない。
 ならばこの「手法」はたんに「ためにする」手法でしかないのではないか。
 それでもこうした手法が採用されていることによる魅力はいかんともしがたく、ある。一言で言えば物語が重層的に感じられる、ということだ。
 創作物が「よくできている」というのは、それだけである種の満足を見る者に与えてくれる。複雑さと拡がりの感触。
 だがそれだけなのか。『クラウド・アトラス』では、その複数の物語の重層が、何か複雑な干渉を見せそうな感触があって、途中に強い期待感を感じさせて、結局最後までその期待が満たされずに終わった。
 もちろんSFではない『めぐりあう』はそんなふうに物語同士が干渉しなくてもいい。途中で、そうか、それぞれのヒロインの苦悩に共通性があるということなのだなと気づくくらいで、この構成についてのある程度の納得はある。
 だが、どれか一つの物語で完結するという可能性は、その物語の価値を下げるのだろうか。そうかもしれない。どれか一つでも十分な強度をもつそれら3編の物語は、しかし『めぐりあう』ほどの特別さをもたないかもしれない。
 それがなぜなのかは、いずれ観直して再考しよう。とりあえず感情を揺さぶられたことは間違いない。

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