2017年8月12日土曜日

『羊たちの沈黙』-「アメリカ的」なもの

「アカデミー賞特集」みたいな放送で録画。
 3回目くらいになるか。
 以前の印象では、とにかく面白い映画であることは間違いないが、どうしてアカデミー賞を受賞するような評価のされ方をしているのかが腑に落ちないでいた。確かにレクター博士のキャラクターは強烈ではある。それでも、それがアカデミー賞などというはれやかな賞の評価にふさわしいという感じがわからなかった。
 今回、久しぶりに観て、やはりレクター博士の脱獄についてのシークエンスと、主人公クラリスが犯人バッファロー・ビルの家に入るシークエンスのサスペンスはさすがだった。どちらも観客の想像を誘導しておいてどんでん返ししてみせるという手法が冴えていた。
 とりわけ後者で、FBIが犯人の家に踏み込む過程と、クラリスが捜査のために関係者の家を訪れる過程と、犯人が家にいる過程を並行して描いておいて、どれとどれがどう接続するかという読者の想像がひっくり返る瞬間はお見事である。
 だがこのアイデアが空前絶後だというわけではなかろう。例を挙げられるわけではないが、他には見たことがないという印象でもない(乙一が小説では時折やっているが、それはむしろこの映画の影響かもしれない)。
 というより、こうした映画的うまさがアカデミー賞の評価の対象となるというのがどうもピンとこない。
 ではどういうのがアカデミー賞の評価になるのかといえばそれはそれで確からしい定見があるわけでもない。だがいつも作品賞を獲る作品には、何かしら「アメリカ的なもの」がそこに感じられるようにも思う。それはアメリカ的な幸せだったりアメリカ的な誇りだったりアメリカ的なトラウマだったり。さてでは『羊たちの沈黙』ではどこがそうなんだろう。
 やはりレクター博士とクラリス捜査官なんだろうか。主演男優/女優賞を独占したアンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターには納得だが、そうした演技の賜物というだけでなく、そもそも精神分析医が怪物であるという設定と、正義感の底に強迫観念があるという設定が。
 どちらにもキリスト教を背景にした文化的な刻印であるような感じもして、それに感応しない日本の観客には、この作品はやはり、よくできた面白いサスペンス映画でしかないのかもしれない。

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