2017年8月27日日曜日

『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』-制作者たちの罪は重い

 あるとき突然、テレビから「Forever Friend」が流れてきて、何事かと思ったら『打ち上げ花火 下から見るか? 横から見るか?』がアニメ化されるという。しかもシャフトで、新保が総監督となれば『物語』シリーズだ。「まどマギ」にはまるでノれなかったが、ある程度の品質は期待していいだろうと、映画館に観に行くことにした。

 で、見始めこそ、そのアニメーションの品質にワクワクしたが、見続けていると、あれっ、という感じになった。観ていて、映画の先行きにちっともワクワクしてこない。話はわかっていて、先の展開が知りたいということではないから、その先に起こるであろう感情の揺れを追体験することに対する期待があってもよさそうなのに、そうならない。今、特に感情が揺れていないからだ。
 どうも会話のテンポがタルい。キャラクターに魅力がない。
 不満は後半にいくにつれ、どんどん増大していった。そして最後まで、その不満を解消するに足るプラス要素がないまま映画は終わった。
 いったいこの人たちは何を考えているのだろう。脚本家も監督もプロデューサーも。
 がっかりというより、はっきりと怒りさえ覚えたのは、もちろん原作を知っているからだ。
 少なくとも期待していたアニメーションの魅力も、テレビの情報番組の紹介で観た、花火のCGの平板さに不安を感じていたとおり、後へ行くほどがっかりだった。
 「まどマギ」の異空間も、その場面が現れる度、違和感で冷めたものだが、この映画でも、例えば題名の「打ち上げ花火」がとてつもなくチャチい。いきなり映画の中の空間と別な層でCGの花火が画面いっぱいに重なる。しかもそれが特に綺麗だと感じられるような作りになっているわけでもなく、ただ機械的で平板なCGが作品のリアリズムを台無しにするのだ。
 あるいは人間を描くことについても、リアリズムはまるで保障されない。なずなの母の再婚相手が、ホームで典道を殴り倒す。体の小さな中学生がホームに倒れているのに、それに一顧だにせずに立ち去る大人がいるものか。こんなふうに、いるはずもない記号的「ひどい大人」を描かないと典道の試練が描けないと考えてしまう制作者たちが、まともなドラマを描けるわけがない。

 原作のある作品をどう別メディア作品として再話するか。原作に愛着のある人に不満を感じさせない再話をすることは、もちろん難しい。それはほとんど成功しない。その作品の魅力が、そのメディアの特性によっているならば、そもそも再話が成功するはずはない。
 それにしても、だ。それが、創作というものに対する志に何ら関係のない商売であるならば、動機はわかる。どういう見通しであれ、話題になってしまえば商品価値は見込める。メディアミックスは宣伝と販売、回収がセットになった効率的な戦略だ。
 だが、何かしらそれが作品として意味あるものになるはずだと考えるならば、そのメディアによってのみ生まれる魅力を、その原作に付け加えることを意図しないで、なぜ再話などするのか。
 せめて魅力が加わらなくても、改悪をすることはなかろう、といつも思う。どうして「そこ」を変えるのか。それは元の作品の魅力のなにがしかを支えている要素ではないのか。あるいはあらたな魅力を付け加えるべく、企図されているのか。
 残念ながらこのアニメ化にあたって、原作から変更された要素に、成功しているものはほとんど見あたらなかった。
 わずかに、坂の多い銚子の街並みの古めかしい佇まいと、そこに不自然に存在する近未来的校舎の違和感が、世界観として面白かったが、それ以上にそれが何か作品全体の魅力につながっているという感じはしなかった。
 それ以外には失敗している改変ばかりなのだが、とりわけ許せない点を三つ。

 主人公たちを中学生にすることの意味をどう考えるか。
 原作の小学生ではできない恋愛要素を盛り込める、それはそうだろう。だがそのことで失われてしまうものをどう考えるのか。
 原作は、もちろん友達連中もそうだが、なんといっても山崎裕太と奥菜恵の、あの歳の魅力失くしては成立しない。
 いつもふてくされたように生意気に喋る山崎裕太の典道は、先に大人っぽく振る舞うことを覚えた女の子に振り回されても、結局はカラッとしていられる。
 そもそも女の子との絡みにドキドキしてはいるものの、はっきりとそれが恋愛であるような描き方はされていない。二人が最初のうち、好きあっていたのかどうかも怪しい。最後だって、どうみても「恋人」のように描かれてはいない。
 だがそれがいいのだ。そのイノセンスと、微かに垣間見える大人の世界とのバランスが切ないのだ。
 それが中学生として描かれると、すっかり台無しなのだった。主人公はとたんにウジウジと思い悩む少年に見えてきて、鬱陶しいことこのうえない。この感じは「碇シンジ」だ。またしても。ウンザリ。
 そのわりに菅田将暉の声は低くて、あの声であまりに子供っぽい中学生を演じられると、違和感ばかりが甚だしくて、気持ち悪かった。下手だというわけではなく、単なるミスキャスト。といって、声の合うキャストで中学生らしく見えても、キャラクター造形が鬱陶しいのにかわりはないが。
 一方の広瀬すずは悪くないが、中学生のなずなは、やたらと謎めいた前半に比べて、後半の子供っぽさが違和感ありすぎる。小学生には許せるものが、中学生には許せない。
 奥菜恵のなずなは、最初から本心が読めないのを「謎めいている」といえばそうだが、それも所詮小学生の背伸びに見えるし、だから母親に引き戻されるところで泣いたって構わない。そして後半は、あの、典道をおいてけぼりにして「かけおち」なんかなかったことにしてしまう呆気にとられる展開にしても、過剰にウェットになりそうな予感を軽やかに裏切って典道を翻弄する。恐ろしく魅力的なキャラクターになっていた。 

 観ながら、あ、これは駄目だ、と思ったのは(そういうのは何か所もあるのだが)列車の中でなずなが「瑠璃色の地球」を歌うシーン。
 広瀬すずは思いのほか良い声で、悪くない、と一瞬思ったのも束の間、伴奏が入り始める。あれよという間にディズニーランドもどきの(これもまたチャチな)CGのファンタジー空間が現れる。主人公が空中を飛ぶ車に乗る。オーケストラをバックに「瑠璃色の地球」が歌い上げられる。
 この映画は、こんなふうにして、印象的になりそうなシーンを台無しにしてしまう。夜の列車の中でアカペラの歌を聴くというシチュエーションにこそ価値があるのに、それをわけのわからないミュージカルにしてしまう。
 『La La Land』も、冒頭のハイウェイの場面が素晴らしいのは、それが現実のハイウェイ(らしく見える)空間で繰り広げられていたからで、天文台のシーンは妙なファンタジー空間に入ってしまってがっかりした。
 それでも、実写映画でそれをすることの意味はある。生身の人間が、現実に存在するどこかのロケ地かスタジオで撮影しているのだ。そこからファンタジー空間へ移行することには、相応の意志を認めることができる。
 大根仁でいえば『モテキ』だ。あれも実写映画であればこそだ。街中がそのままミュージカルの舞台に接続してしまう眩暈のような感覚に価値があったのだ。
 だがアニメーションは、そもそも現実の空間を撮影してはいない。リアリティを感じさせる方に労力が向かうべきところに、それを全く放棄したかのようなファンタジー空間に移行したからといってどんな異化効果があるというのか。
 そうではないはずだ。夜の列車内の、二人しか乗っていない車両で、これから東京へ「かけおち」しようとしている少女が歌い、引きまわされる少年が、わけのわからないままそれを聞くことになる時間の魅力こそ描くべきではないのか。歌の最中は、様々な現実的(車内の、車窓外の、あるいはそれぞれの登場人物たちの)カットバックがコラージュされるべきではないのか。
 アニメだからこそ安易にできるファンタジー描写が、ドラマを根こそぎにしてしまう逆効果をどうして自覚しないのか。

 もう一つ。上の不満とも通ずるのだが、全体として、SFともいえないファンタジー要素を入れることの意味をどう考えるか。
 原作では、ストーリーが分岐するパラレル・ワールド設定的な枠組みがあるものの、それぞれのストーリー内にファンタジー要素はない。非現実的なことは起こらないという枠組みで描かれている。
 一方、映画版ではパラレル・ワールドではなく、タイム・リープによる時間の巻き戻しだ。ただし、記憶は保持されていて、主人公たちは意識的に選択のやり直しをする。
 タイム・リープ要素を取り入れるのはいい。だがそこに灯台のレンズを思わせるあの不思議な玉を導入すると、上記の花火の描写の薄っぺらさにも通ずるCG合成の違和感が甚だしくて、まず萎える。
 だが問題は、繰り返されるうちに世界が非現実的な異世界になっていくことに、何か良くなるような要素があるのか、という点だ。
 タイム・リープ設定が非現実的であることは構わない。だがそこで繰り返される物語が、『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『シュタインズ・ゲート』のように、物語の可能性の展開として示されるのならいいのだが、この作品では、奥行きが増すような(たとえばそこで二人の絆が強まっていくような)感触ではなく、ただひたすらに拡散して、薄くなっていくような印象しかないのだ。
 タイム・リープは典道にとって、諦めないことの意思表示のはずだ。うまくいかなかったある場面を、創意工夫と意志の力で乗り越えていく試練の連続があのタイム・リープ設定の可能性ではないのか。
 それが、繰り返されるうちにわけのわからないファンタジー世界に迷い込んでいったのでは、どんな創意工夫のしようがあるのか。ただ翻弄されていくばかりだ。「成長」の要素を敢えて描かないことも、制作者の意図だというつもりなのか。
 そしてこれも灯台のレンズのイメージを応用したものか、最後の世界の空の描写はいったい何だ? 何かすごいものを見せられたというような映像的な美しさがあるわけでも、世界観があるわけでもなく、ただそんな風に描かれることの意味がわからない、という当惑だけがある。にもかかわらず、それは、わざわざそうしているのだ。原作を改変して。
 そして原作の、あの奇跡のような夜のプールの場面を、わざわざ海に置き換えて、まるでそこに何の魅力も見いだせないような場面として描きながら、極めつけは例の「今度はどんな世界で会えるかな」だ。
 原作の「今度会えるの、二学期だね」は、二学期には転校して会えないことを知っているなずなが、そのことをまだ知らない典道に言う科白だ。この切なさが、夏休みという、終わることを約束された、限界を持った掛けがえのない時空間の愛おしさとともに胸に迫るのがこの科白なのだ。それを作品から消し去ってしまうことの意味を、脚本家も監督も、いったいどう考えているのか。
 制作者たちの罪は重い。

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