2019年9月29日日曜日

『It follows』-サスペンスと映画的描写の確かさ

 公開当時から楽しみにしていたが、ようやく。期待に違わず愉しく観られた。いかにも金がかかっていない映画がこんなふうに愉しく創れるのは嬉しい。
 基本はアイデアと演出、そして演技。
 ホラーはルールがどうなっているかが命だが、それが最初に明言されるのが好ましく、物語が進行するにしたがって追加のルールが明らかになっていくのもいい。「それ」は歩くだけ、姿を変える、他の人には見えないなどに加えて、頭を銃で撃つと一時的に止められるが、すぐにまた復活する、とか。物理的な存在である、とか。
 といって、結局その正体が説明されないのもいい。合理的な説明は、納得できるようにされればそれもいいのだが、本作では合理的な説明など無理なようにルールが設定されている。これを無理に説明したらそれもしらけるだろうし。
 ただ映画全体は、それを象徴的に解釈しようとすればできそうなように誘導しているとも言える。明らかに性的な要素が盛り込まれている。「それ」を他人にうつす方法に性的接触を用いるとか、「それ」が裸だったり薄着だったり、主人公に対する近所の少年の窃視が何度も描かれたり。
 だから「それ」が性病の隠喩なのではないかと推測されたりする。監督がそれを否定しているのは、「それ」の正体を限定する気がないというなのだろう。映画の中で説明していないのもそのつもりだからなのだろうし。
 一方で「それ」は「死」の隠喩なんだろうという説もあるが、もちろんそれは適切で、そもそもホラー映画の怪物は言ってしまえば全部「死」の隠喩だ。もちろん「それ」はとりわけ「死」の特徴に合致する。ゆっくりと確実に近づいてくる。結局は逃れられない。
 といってそう解釈できるから面白いというわけではなく、やはりその怪物の設定が面白いかどうかだけが映画としての価値で、本作のサスペンスはその設定に拠っているのだ。
 ただ歩いてくる、という設定があるせいで生じているサスペンスが、これほどまでに全編を緊張させているのは本当に見事だ。カメラが登場人物たちを中心から外すたびに、観客は背景に注視してしまう。そしてそこには何もなかったり、あるいは逆に登場人物たちにピントが合っている時に、背後に「それ」が近づいてきていたり。
 しかもそれは絶望的な恐怖ではなく、対処可能なレベルであることが重要である。明確なルールがあると、それに対処することができるから、主人公の、そして主人公達の戦いが意志的に描かれる。ジェイソン・ボーンのように高いレベルではなく、高校生らしい間抜けさで、だが決して不快なほどの愚かさではなく彼らは戦う。

 物語の愉しさ以外にも魅力的だったのは、とにかく近所や公園の紅葉した木々や、アメリカ郊外の寂れた住宅地の街並みが実に画になるように撮られていたこととと、主人公の幼なじみの男子が、主人公に向ける気遣いと周囲の男に向ける嫉妬の眼差しが極めて確かな演技と演出で描かれていたことだ。監督の映画作りの力量を感じさせる細部だった。

2019年9月28日土曜日

『ボーン・レガシー』-すごい創作物

 『ボーン』シリーズではあるんだろうが、どういう位置づけなのかは知らずに観始めて、主演がマット・デイモンではなくなったが、それはジェームズ・ボンドなんかと同じく、役者が変わってもジェイソン・ボーンなのかと思いつつ観続け、観終わって調べてみると別人なのだった。しかも時間軸的に前作に被っているのだった。
 それにしても作戦名とか組織名とかが把握されていないから、誰が何の思惑で動いているのかわからず、そこらあたりもよく考えられていそうな感触ではあるが、鑑賞対象にならない。
 それでも恐ろしく良く出来ていることはありありと感ずる。これで前3作の二人の監督のいずれでもない別の監督作だというのだから、相変わらず米国映画の層の厚さよ。画面のいちいちが緊密な完成度で、役者の演技からカメラワークから編集のテンポから、弛緩したところがまるでない。
 こういうのに馴染んでいると『牯嶺街少年殺人事件』のすごさがわからないのだ。別な基準で判断しなくてはならないのだろうに。
 そして物語の大枠がわからないうえでどこを楽しむかといえば、危機回避のサスペンスだ。巨大な権力が主人公を抹殺しようとしている。それに抗って逃げ延び、時に戦う。
 最初の無人機の爆撃に対抗するシークエンス、ヒロインを殺害しに来た数名の工作員との邸宅を舞台とした戦い、ラストの街中でのカーチェイスを含む、主人公と同等の能力を持っていると思われる工作員との戦いなど、『ボーン』シリーズに共通する、驚異的な判断力と身体能力で、ほとんど絶望的と思える状況から脱出するサスペンスとカタルシスという物語要素を、本作でもいかんなく現前させている。
 ここがすごいところなのだ。監督が替わったというのに。もっとも今回の監督は前作までの脚本には関わっていた人物ではあるので、そのレベルが維持できているということもあるのかもしれないが。
 何にせよ、すごい創作物を観た感動がある。

2019年9月23日月曜日

『マッチポイント』-人間ドラマとして感情が動かない

 『ブルー・ジャスミン』以来のウディ・アレン映画。だが感触はまるで違う。『ブルー・ジャスミン』のようなほろ苦でユーモラスな要素はなく、シリアスでサスペンスフル。
 映画としては、プロローグのテニスのラリーの1球がネットに当たって真上にあがり「どちらに落ちるかは運」というナレーションとともにストップモーションになるところに目を奪われるのと、それが殺人の証拠を隠蔽する場面の指輪を川に投げ捨てるところに重なるところがうまくて唸る。手すりに当たった指輪はどちらに落ちるんだろうと思っていると手前に落ちるところから、これが殺人発覚につながるんだろうと思っているとそれが逆にはたらく結末がドンデン返し的意外性を感じさせるから、脚本的には巧みだということになるんだろう。
 だが不倫の相手を殺してしまう主人公に全く共感できなくて参った。なんなんだ、この支離滅裂な行動は。
 映画としてどうであれ、人間ドラマとして感情が動かない。

2019年9月12日木曜日

『牯嶺街少年殺人事件』-「名作」がわからない

 4時間という長丁場を何度かに分けて観たのだが、こういうのはもちろん良くない。評判の高さのわりにおもしろくないのだが、面白くないから続けて見られないのか、続けて見ないから面白くならないのか。
 観終わってネットで評価を見ると、印象とあまりに違うので、これはやはり見方が悪いのかともう一度観てみる。二度観ると、あちこちがちょっとずつ面白くなってくる。
 やはり闇と光のコントラスト。主人公達が夜間部の生徒だから頻繁に場面に現れる夜の校舎。闇の中から投げ出されるボール。夜の嵐の中で繰り広げられる惨劇。
 とはいえ、評価されているような台湾社会や家族、思春期などのドラマが胸に迫ってくるかといえば、そうでもなかった。上手い役者はいるのだが、肝心なところで若い役者が大根なままシリアスなドラマを見せるのがどうにも興ざめで。なぜそこはそのままでいいのだろう。
 結局、問題のヒロイン殺害にいたる心理にも共感は出来ず。ここが痛みとして共感できなければだめなのだ。たぶん。

2019年9月11日水曜日

『ポノック短編劇場 ちいさな英雄-カニとタマゴと透明人間-』-山下明彦作品のみ

 『メアリと魔法の花』を観たのがちょうど1年くらい前になる。そのスタジオ・ポノックの第2作がこれ。15分前後の短編3編の併映で、1編目が『メアリ』の米林宏昌作品。
 先日の細田守と同じく、駄目であることを確認するために観ているような心構えになっているが、結果として予想を外していない。
 1話目の米林宏昌も2話目の百瀬義行も、優秀なアニメーターであり、演出も手慣れた表現にはなるのだが、いかんせん物語の浅さがむごたらしいほど。なぜ本人に脚本を書かせる? そこまでお話はどうでもいいから、アニメでさえあればいいとの企画なのか?
 そうすると演出も、それが目指す情感がどこにあるのかもわからず、心を動かすようなことにはならない。1話で言えば子供たちの健気さや父親の力強さが、まったく型どおりに描かれるが、それは物語が型どおりにしか進行しないということでもある。
 アニメ的には、蟹に対する山女魚(?)の大きさと、さらに上空(水面上)から降臨する鷺のスケール感が圧倒的だが、まああれも現実的なスケール感としては不自然で、なぜいっそ架空の世界でないのかが疑問。
 蟹を擬人化して描くのも、他の生物が擬人化されないのはお約束として受け入れるとして、途中に別の蟹が数匹、擬人化されない蟹のまま描かれるのはまったく意味不明で、何事かと思った。
 2話目の卵アレルギーの少年の話も、生活に不便を抱えながらも生きていく健気さが描かれているんだろうなと思って見ていると、最後に手違いで食べてしまった卵入りアイスで危険な状態になるところが物語的なクライマックスで、だからといって結局大丈夫だったというだけの、物語的に何事も起こらない、見事に「なにもない」作品だった。
 おそらく扱いが最も地味な3話目の『透明人間』だけは、充分観るに値する作品だった。画面の隅々まで、新しいことをやろうという気概に満ちている。1,2話の、手慣れた場面を描くだけのアニメーションとはまるで違う。
 山下明彦というアニメーターが関わってきた作品リストには、錚々たるジブリ作品もあるが、テレビの方でも特筆すべき作品があるとも思えず、監督としてはほとんど初作品なのだった。いるところにはいるのだ。人材が。とはいえ、このまま脚本を書いて長編を期待していいのかというとそれはまたどうだろう、という感じではある。

2019年9月1日日曜日

Kiki vivi lily

 久しぶりに、最近知った良い音楽を。
 例によってYoutubeのリコメンドでKiki vivi lilyという、ソロかバンドか、歌手名か曲名かもにわかにはわからないMVを観てみると、これが見事にツボる。
結局ソロのミュージシャン名だったのだが、いやはやおそるべし。「それほどでもない」という曲がない。見事にどれもいい。まずリズムとサウンドが良くて、適度に転調したりテンションがかかったりというコード進行が良くて、そこに乗るメロディが心地良ければ、ボーカルがまたきわめつきに好みである。
 どこかのキャッチコピーには「ブロッサム・ディアリー・ミーツ・ヒップホップ」とあったが、ラップに不感症の筆者も、ヒップホップのリズムは良いと思うし、そこにブロッサム・ディアリーとくれば良くないわけがない。
 だがそれよりも「90’sR&B」とくると、そうかなあ、と思うが、確かに渋谷系というならそうだ。そして渋谷系とは「70年代はっぴいえんど系」の隔世遺伝なのである(80年代をまたいでいるという意味で)。良くないわけがない。