2019年8月11日日曜日

清水邦夫「楽屋」-演劇にとどまらないメタファー

 知人の主催する劇団の、昨年の第一回公演に続いて、今回第二回公演となる舞台を観てきた。三日間の公演の、二日目に都合が良かったので観たのだが、あまりに面白かったので、三日目の最終公演にもう一度観た。
 演目は井上ひさしの「化粧」と清水邦夫の「楽屋~流れさるものはやがてなつかしき」の二本立て。いずれも楽屋を舞台にしたこの二つの演目を並べて一つの公演としているところが気が利いている。
 さて、「化粧」も熱演だったが、二日間観る気になったのはなんといっても「楽屋」が面白かったからだ。
 素人劇団なのだが、「楽屋」に登場する4人が、それはそれは見事な演技だった。彼女たちがいわゆる劇団員ですらないような、まったくの素人であることが信じられないほど、凝縮された強い感情を舞台上で放出していた。彼女たちが賞賛に値することは言うまでもないが、それを実現したのは演出の力であることも間違いないのだろうと思われた。
 そして面白いと思わせるには脚本が優れていなければならないのはもちろんだ。後から調べてみると、累積上演回数が日本一だという有名戯曲なのだが、まあ見事な脚本だった。さまざまな感情の綾が複雑に入り組んで表現される。その中には嫉妬や怒りや鬱屈や絶望といった負の感情が入り乱れているのだが、最後の最後で、ぎりぎりの希望を寄せ集めて前向きになる結末が感動的だった。
 物語に登場する4人の女優は、演劇に関わること、もっと言えば舞台に立つことの恍惚と、その裏返しの鬱屈を体現する。いつか舞台に立つことを夢見て化粧を続ける万年プロンプターの女優予備軍たちも、自分が舞台に立つべき者だという妄想にとりつかれたメンヘラの女優の卵も、ベテランとして舞台に立ち続けることで何かを捨てることを選んだ女優も、そうした強い感情を観客に伝えてくる。
 だが2回目を観て、これが単なる演劇にまつわる物語ではないように思えてきた。人前に立つことの恍惚と負担も、いつか自分が活躍することを夢見ながら、実際にはそうした舞台に立つことが叶わない多くの人々と、自分たちで出来ることを始めようと思うにいたる結末も、人生そのもののメタファーではないか。
 この物語がこれほど心を打つのはそうした普遍性のせいだ。

 ところで、後から調べてみると、実際に舞台に立っている女優以外の三人は「亡霊」なのだそうだ。上記メンヘラ女優も、物語の途中で死んで、結末では亡霊になっているのだ、と。二回観ても気づかなかった。
 もちろん非現実的な存在であるように描かれているともいえる。だが一方でそれは演劇的な誇張だと思えば思える。そういえば生きている人間には彼女たちが見えていないという描写がある。だがそれも殊更に無視しているぞというアピールをしているという意味だと思っていた。
 演劇はリアリティのレベルが自由だから、それをどのレベルで受け取って良いのかがわかりにくかったのだ。
 では結末を希望と捉えたのは、いささか性急だったか。いや、それでもかまわないのか。

0 件のコメント:

コメントを投稿