2019年7月24日水曜日

『未来のミライ』-期待の細田作品(逆の意味で)

 細田守作品には『バケモノの子』以来、最初から否定的にしか構えられない。実は『バケモノの子』も観ているのだが、このブログの原則を破ってそれについての記事を載せてないのは、あまりにいろいろと文句ばかりがあって、それを丁寧に言うには時間がかかると思って避けているうちに時間が経ってしまったのだった。単に「つまらなかった」とだけ言うのも芸が無いし。
 これは以前の細田発見の頃の興奮が過剰な期待を生んで、『おおかみこども』以降の作品への反発を喚んでいるのである。
 『おおかみこども』も『バケモノの子』も、どうして駄目だと感じたかを言うことはもちろんできる。だが初期の細田作品がどうしてあれほど面白かったかを言うのは簡単ではない。「鬼太郎」の細田演出話や『ぼくらのウォーゲーム』が、今観ても突出した面白さをもっていることに比べて、ここ『おおかみこども』『バケモノの子』が駄目なのは脚本のせいであることははっきりしている。

 そして今作である。やはり脚本は細田守である。逆の期待が働いて観始める。すると主人公の声の配役でもう萎える。上白石萌歌が悪い役者だとは言わない。キャスティングが間違っているというだけだ。星野源の父親も良くない。どうみても意識されている『となりのトトロ』の糸井重里の父親も、うまいとは言い難いが、それでももはやああいう人物がいるとしか思えなくなっているのに、こちらの父親は人工的にしか感じられない。
 主人公のくんちゃんもそうだ。人工的な「こども」にしか見えない。声の問題だけではない。演出の問題だ。こどもってこうでしょ、という作為だけが見え透いてしまう。
 たぶんこれは筆者だけの感じではないと思う。脚本の駄目さが演出にまで影響してしまうのは不思議な話だが、そこには関係があるとしか思えない。
 これは個人的な見方になるが、下のこどもが生まれて赤ちゃん返りする幼児、というのがもう思い当たらない。そういう現象が世の中にあるのは知っているから、それ自体を否定はしないが、下のこどもに当たってしまうにしても、それはもっと隠微な形をとるんじゃないかと思う。我慢した上で自分を責めるように表れるとか、罪の意識を伴って下の子をいじめるとか。くんちゃんの描きようはあまりに単純にわがまますぎる。葛藤もない。
 物語としても、未来の妹に会うという設定は魅力的だが、それが何をもたらしているかわからない。こども時代の母親とか曾祖父の若い頃だとかと過ごす一時が、単純に言えば成長をもたらしているのだと描きたいに違いないのに、そのような論理が見えてこない。
 未来の自分に会う場面があるが、成長して、こどもである自分を客観視できるようになっているはずの自分は、幼児の自分と同レベルで言い争いをしてしまう。これが物語の論理にとってどういう意味があるかはおそらく考えられていない。それらしい情報が読み取れないからだ。あれは単にコミカルな場面として演出されているはずだ。
 こういうノイズがどうにも不愉快。階段の上り下りにも不自由する幼児のいる家でコンクリート打ちっぱなしの階段が何の手当もされていないのはなぜかとか、最初に未来の妹と会うのはなぜ屋根のある植物園なのかとか、未来の東京駅の遺失物係はなぜロボットのようなのかとか、それを認めるとしてもやつの周りをチョロチョロする時計の顔をした小さな駅員は何なのか、とか。そこに意味があるわけでもなく、印象的でもないノイズが不愉快である。

 心に響くドラマなどちっともないが、アニメのレベルだけはやたらと高い、というのがここ2作の細田作品だったが、今作ではアニメ的にもそれほど高く評価できない。作画はむろん良いのだが、カメラワークや編集などに光るものがあるようには感じなかった。これは最近『聲の形』を観たばかりなので、その差がはっきりと感じられるのだった。
 それでも印象的だったのは、こども時代の母親と会う雨の街の古びたたたずまいと、戦時中に戦艦が撃沈されて曾祖父が投げ出された海の深さだ。ここだけは本当に成功している。過去の積み重ねのうえに今の自分たちがあるという、この物語のメッセージも、物語的にはまるで伝わらないが、この画だけがそれを伝えている。

0 件のコメント:

コメントを投稿