2014年11月13日木曜日

「こころ」7 ~「進む/退く」

 前回の「覚悟」をめぐる考察は、ともすれば「覚悟」という言葉にこめられた「K」の真意は何か? という点を直ちに問題にしがちだが、その前に、「覚悟」という言葉がどのような機制によって、「私」によって正反対の意味に解釈しえたのか? という問いの重要性について、再び強調しておきたい。
  単に「覚悟」と言った場合、それが何の「覚悟」なのかは、前後の文脈から判断するしかない。「~する覚悟」の空欄部分に代入されるべき適切な行為は、前後の文脈のどこかに示されてあるはずであり、また、他の部分との整合性がとれるはずである。だからこそ「覚悟」は最初、当然のように「お嬢さんを諦める覚悟」だと読者に理解されるのである。だが、同じ文脈に置きながら、それが「お嬢さんに進む覚悟」の意味にも解釈されうるよう、周到に調整された設定と文言にこそ、読者は驚嘆すべきである。
  だが、さらにこれが「K」の真意まで含めて、都合三通りもの解釈を可能にしていることの凄さは、一般には理解されていないはずだ(言ってしまえば、ほとんどの国語教師にも)。だからこそ、「私」の解釈とは違って、「K」の言う「覚悟」は自らを処決する覚悟なのだと、あっさりと、尤もらしく語ってしまう。そしてだからこそ、ともすればそれは「お嬢さんを諦める覚悟」でもあると同時に、とか、「自殺と言うほど明確ではないにせよ何らかの形での覚悟」などと、しばしば曖昧な形で語られるのだ(某指導書のように)。
  だが、「お嬢さんを諦める覚悟」があるのなら「K」は死を選ぶ必要はないはずである。「お嬢さんを諦める覚悟」と「自らを処決する覚悟」は両立しない。
 あるいは「卒然」から、この時「私」が口にした「覚悟」という言葉によって、「K」は「卒然」自殺を「覚悟」したのだ、などとする解釈もしばしば目にするが、これも「覚悟」という言葉の重みに釣り合っていない。「明確でないにせよ何らかの形で処決するつもり」などという曖昧な想念を「覚悟」と呼んでわかったつもりになっている読みの甘さも、多くの評者に見られる不徹底だ。
  「K」の言った「覚悟」はやはり自ら死を選ぶ「覚悟」である。だがそれはいささかも「お嬢さんを諦める覚悟」でありはしないし、方向の明確でない曖昧な「覚悟」でもないし、この時に「卒然」浮かんだものでもない。「K」はそもそもお嬢さんのことなど話してはいないし、方法はともかく決着点としての死を明確に意識したうえで、以前からその「覚悟」を胸に秘めていたのだということが納得されるためには、以下に示すような手順で読解していく必要がある。 

 40章、「私」と「K」の会話の始まり近くに次の一節がある。
彼は進んでいいか退いていいか、それに迷うのだと説明しました。
  この「進む/退く」はそれぞれ何を意味しているか?  これが「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」というような解答を用意しているだけなら、単なる「確認」に過ぎない。問題は、どうしてそのような解釈が妥当だと考えられるのか、である。したがって、そう考えられる根拠を述べよ、と問わないことには、「確認」する意義もない。その先に何らの展開も準備されていないからである。とはいえこの問いもまた生徒には簡単にはその意図するところが理解されない。
  「進む/退く」という動詞は「前後」というベクトルの存在を前提している。「動く/とどまる」ならばそのような「前後」の方向性は限定されないが、「進む/退く」が何のことか読者に了解されるとしたら、「前」に何があるのかが何らかの形で読者に予め提示されているはずなのである。それはどこに書いてあるのか?
 質問の意図がわかってきたところで、40章の「恋愛の淵に陥った彼」という箇所を挙げる者も多いが、「陥る」は上下の方向性が示されているのであって「進む/退く」という前後の方向性が示されているわけではないとして、それだけで充分な根拠とはみなさない。ではどこを挙げればいいか。挙がりにくければ場所を指定して探させる。
  近いところから直ちに挙げられる根拠は次の通りである。
 「彼の態度はまだ実際的の方面へ向かってちっとも進んでいませんでした」 「こうと信じたら一人でどんどん進んで行くだけの度胸もあり勇気もある男なのです」(40章)
「私はその一言でKの前に横たわる恋の行く手を塞ごうとしたのです」(41章)
  このうち41章は「K」が「進む/退く」と口にするより後なので、40章の該当箇所を読んだ時点で「進む/退く」が「恋に」の意味であると読者が理解する根拠にはならないが、再読する読者の存在も含めて「進む/退く」の解釈を支える根拠の一つであると考えていい。
 さて、ここまでで、結局「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈でいいんだな、と意味ありげに念を押しておく(こういう教師の態度に生徒は敏感に反応する)。
 そのうえで41章の「Kは真宗寺に生れた男でした。」からの一連の「K」の人柄についてのひとくだりの解説中にさりげなく置かれた「精進」「道のさまたげ」「彼が折角積み上げた過去」「Kが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突する」などの表現を指摘する。板書しておいて再考を促し、意味ありげな沈黙を置く。というか、種明かしなど、こちらから決してしてはならない。だれかが然るべき結論に辿り着くまで待たねばならぬ。
  これらの表現から導かれる結論とは、「進む/退く」とは「今まで通りの道を進む/道を退く」という解釈である。当否は後回しにしても、ここまでの誘導に従えばそうした結論に辿り着くのは難しくはない。
  これは上の「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という解釈と、「前後」の方向性がほぼ反対を向いている。これら相容れない二つの解釈をどう考えたらいいのか?
  どうも何もない、自然な読者は間違いなく「お嬢さんに」という意味で「進む/退く」を解釈するのだから「道を」などという解釈が所詮無茶な穿ち過ぎなのだと考える人はいるだろう。が、授業という場で教員が意味ありげに提示した解釈だから生徒は粗略に扱う訳にもいかず、とりあえず検討せざるを得ない。そう考えてみると「進む/退く」はそれ自体ではどちらへ向かってとも言っていないのだから、それを補う根拠がありさえすれば、その解釈はどうとでも成立するのである。
  どっちかと惑わせるために、「進む/退く」にそれぞれの解釈を代入してその一節を朗読して聴かせる。つまり、
K「進んでいいか退いていいか、それに迷うのだ」
私「退こうと思えば退けるのか」
というやりとりを次の二つの解釈で読んでみせるのである。
K「このままお嬢さんに突き進んでいいのか、諦めるべきか、それに迷うのだ」
私「お嬢さんを諦めようと思えば諦められるのか」
K「今まで通り精進を続けていればいいか、道を棄てていいか、それに迷うのだ」
私「道を棄てようと思えば棄てられるのか」
 それなりに説得力があるように、多少の芝居もしてみせる。クラスの中でそれなりに信頼を集めている何人かの生徒の意見が二つの解釈の間で分かれればしめたものだ。どっちが妥当であるというために、どんな根拠を提示すればいいのか、生徒たちは考える。
  とはいえ、この「どちらか」はつまるところ決着がつかない。つけるつもりはそもそもない。だから、潮時を見て、この二つの解釈のそれぞれの妥当性をどう納得すればいいか、という方向に思考を修正する。あるアイデアが思いつけば、この問題は解決するよ、とアドバイスしておく。
 さてここからが問題だ。この問いの明確な「答え」に誰かが辿り着くまで待つことはこの授業展開の必須条件なのだが、この「誰か」がすんなり出ないときはどうするか。今年度の4クラスでは2クラスが比較的早い段階で「答え」に辿り着いた。クラスの中で誰か一人がそこに辿り着けばいいのだ。だが残る2クラスではまだ「どちらか」に引きずられて、なかなか目差す「答え」に辿り着く者が表れなかった。
 誘導するか保留にして先に進むか。
 たとえば難航したクラスでは保留のまま先へ進んだ。次の展開は「私はすぐ一歩先へ出ました。そうして退こうと思えば退けるのかと彼に聞きました。」の「退く」をそれぞれの解釈によって言い換えることである。誘導で何とかなりそうだと思えたクラスでは「この文章はそもそも日記なのだから」という「語り手」という存在に着目する意見が出て(結局その段階では辿り着かなかったものの)、そこがヒントになることを強調して待った。
 この問題に対する「答え」とは、つまり「K」は「今まで通りの道を進む/道を退く」という意味で「進む/退く」と言ったのだが、「私」がそれを「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」という意味で受け取ったのだ、という解釈である。二つの解釈はどちらもそれぞれに正しい。二人はお互いの言っていることが反対方向にすれ違っていることに気付かずに会話を続けているのである。

  さてそろそろこの先を続けるのをやめようか。どこまで書くかずっと迷っていたが、きりがない。この先の展開については既に然るべきところで公開していることでもあるし、同じ事をまるきり同じ手間で書いているばかりになってしまっているのに、いささかの徒労感も覚える(でも文章は今まるっきり書き下ろしているのだ)。
 だがやはり少々つけ加えておきたい。上の「答え」については、これまで、ある程度の数の国語教員に対して提示しているのだが、それに対する二つの反応に今まで驚かされてきた。
 一つは、それってもちろんそうだよねえ、という反応である。もともとそう思っていた、殊更に言い立てるような特別な解釈ではない、というのである。
 って、ええっ!? わかってたの?
 私自身が先のような結論に至ったのは、「こころ」を最初に読んだ高校生の頃からどれほどか読んだかわからないほどくりかえし読んだ末の、ある時に他人の教示によって導かれた可能性を検討していくうちに不意に訪れた、いわゆる「コペルニクス的転回」とも言える認識の転回によるものだった。そしてここを転換点として「こころ」は全く別の小説として新たな相貌を現したのだった。それが、そもそもそうなんじゃないの、などど当たり前のように受け取られていい解釈とは思えないのだが。
 前からそうだと思ってたっていう人はそれが「こころ」の解釈として特殊な部類に属する、少数派であることを自覚してはいないのだろうか。ほとんどの人は上のような解釈には至らずにこの部分を読み流しているというのに。そして、この部分をそのように読むことがどれほど劇的な読みの変更を読者に迫るかに気づいているのだろうか。というか、そもそもこの部分について、こうした授業展開をしているのだろうか。
 もう一つは、上の解釈を知った上で、やはりそうは思えない、という反応である。やはり「進む/退く」は「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」と考えるべきであり、「精進/道を捨てる」などという解釈は採れない、というのである。これもまた、ええっ!? である。一度でもこうした解釈の可能性を知って、それを本気で検討してみれば、ここはもうそのようにしか読めないと思うのだが。
 実はどちらの反応の人ともちゃんとその点について話したことがなく、「当然」と言う人も「納得できない」と言う人も、どう考えてそのような不可解な反応になってしまうのかがわからない。私が話す機会があったのは、半ば強引に首肯させられてしまっているに違いない生徒たちや、本当に納得してくれる教員ばかりなので。
 うーん。興味深い。知りたい。どうなんだろ。ほんとのところ。

3 件のコメント:

  1. こんにちは。面白く拝見させて頂きました。これからも頑張ってください!!

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  2. こうこうせい2020年1月10日 20:30

    初めまして。高校生の者です。ブログを拝見させて頂きました。国語教師の視点からみた授業を知ることが出来て参考になり、有り難いです。

    実は、自分は以下の反応をとる立場の者です。

    「もう一つは、上の解釈を知った上で、やはりそうは思えない、という反応である。やはり「進む/退く」は「お嬢さんに進む/お嬢さんを諦める」と考えるべきであり、「精進/道を捨てる」などという解釈は採れない、というのである。これもまた、ええっ!? である。一度でもこうした解釈の可能性を知って、それを本気で検討してみれば、ここはもうそのようにしか読めないと思うのだが。」


    「うーん。興味深い。知りたい。どうなんだろ。ほんとのところ。」とのことですが、ブログ主様がよろしければ、意見交換をぜひしたいです。いかがでしょうか?

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    1. コメントの存在を2年近く気づかずにいた。この返信が届くようなら、謝罪の気持ちを伝えたい。本当に申し訳ない。そして、相変わらず「興味深い、知りたい」のは変わらない。
      あれからも上記の様な解釈を何百人の生徒と何人もの教員に語ってきたが、反論が返ってきたことがない。
      かつ、彼らが自分でそれに気づいていたのだ、という話も聞いたことがない。みんな驚いて、その後で納得しているように見える。
      近いところでは姉妹ブログで、去年「こころ」の授業をして、もう一度改めて論じている。
      https://gendaibunkyousitu.blogspot.com/
      よろしかったらそちらにも目を通して、あらためてご意見をください。お待ちしております。
      https://gendaibunkyousitu.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AE%E4%BC%9A%E8%A9%B1

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