2018年8月17日金曜日

『岸辺の旅』-納得できない

 書店で黒沢清と蓮實重彦の、この映画についての対談を立読みして、録画したまま手のつかずにいたのを観る気になった。
 死んだ夫が、ほとんど生身の人間と同じような形態で現れて、3年間、行方不明の夫の帰りを待っていた妻とともに旅に出るのだという話の骨格は知っていた。「岸辺」が現世と死者の国の境界を意味していることも見当がつく。何か、じわじわと「成仏」的な救済が感じられるような物語なんだろうという期待をしていた。
 確かにそうだった。それは間違いではない。
 だが蓮實が触れる浅野忠信のコートの色や女優が床に座るシーンなどは、どうにも何の感動も呼び起こさないのだった。
 いくらか共感できるのは、深津絵里が道路の反対側に走っていって、残された浅野忠信が妙に遠くに感じられるショットになって音が止まるシーンの印象的であることと、蒼井優がすごいということくらいか。
 もう一つ、観ながらアッと思ったカットがあって、終わってからもう一度本屋に行って対談の続きを読んでいたら、そのことに触れていたのは興味深かった。鳥の影が地面を横切るのが画面に映り込んでいて、これは偶然か狙いかと蓮實が聞くと、黒沢が、よく気がつきましたと返しそれは偶然だと答え、さらに別なシーンではCGで書き込んでいるのだというのだ。鳥の影は死者の国からの使者のような象徴性を帯びているということなのだろうが、そういった物語的な因果律の納得よりも、映画に紛れ込んだ「異物」としての驚きがあったのだ。

 いくつかの場面に感興を覚えつつも、結局、その評価については、物語的にも映画的にも、あれこれ納得はできないのだった。
 そう、まず物語的になんだか納得できない。物語は、旅の途中で別の死者たちと関わり、彼らを「成仏」させたあとで主人公も成仏するというのが端的な要約なのだが、たとえば最初にかかわる死者であるところの小松政夫が成仏するきっかけとなるのがなんなのか、わからない。生前のDVを告白したことか。観客的にはそれはその時に知らされた情報だろうが、それは死者にとっては繰り返し訪れていた悔いであるはずである。そもそもその悔いが死者をこの世に留まらせていたのだという理屈もよくわからない。妻へのDVへの悔いが?

 そして映画的にこれが優れた作品であるという評価にも、にわかに納得しがたいものがある。風に揺れるカーテンとか急に暗くなる画面とか、いつもの黒沢演出は、まあ悪くない。花の写真の切り抜きが壁一面を埋めているのが、徐々に照明を当てられて観客に見えてくるシーンは、さすがに映画的な感銘を受けた。
 だが、蓮實との対談でも触れていた、あえて死者が消える場面を唐突に見せるカットのつなぎ方は、正直、違和感しか覚えなかった。単に素人臭いという感じだった。といってCGで消えていく様子を描いてほしいというわけではない。そして、その場面を描かずに、時間をとばして、後の展開につなげるのは逃げかもしれない。
 それでも、消えていく死者の肩を抱く浅野忠信が、次のカットで宙を抱くように手を伸ばしているという演出は、ほとんどふざけているのかというようなつなぎかただった。死者が消えた後の手の伸ばし方が不自然に真っ直ぐ過ぎるところなぞも、あまりに芝居が素人すぎる(そもそもが浅野忠信という役者は常に素人臭いんだかなんだかわからない芝居をする役者ではあるが)。
 その死者が消えるまでのシークエンスは、画面に映る山中に流れる霧があまりにあからさまにチャチいCGであることにまずびっくりしていると、そのままチャチな学芸会のような芝居が続くのにもびっくりしてしまう。まるで仲間うちで作りましたというような低予算映画的な手触りなのだ。これはいったい何の効果を狙った演出なのだろうか。腑に落ちず、感銘を受けるということもない、わけのわからない場面だった。
 蓮實重彦がどういうわけでこの映画を評価しているのかが、結局わからず、もやもや。ついでにくだんの同書に収められている阿部和重の「岸辺の旅」論は、まったくよく考えられたものだというような論理で、完全に「トンデモ」に感じられた。

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