2016年3月30日水曜日

『永遠の僕たち』(原題:『Restless』 監督:ガス・ヴァン・サント)

 最近もっとも面白い漫画のひとつに、『響(ひびき)』という、天才的な小説を書く才能を持ったエキセントリックな女子高生の物語がある。作者の柳本光晴という人は、前に『女の子が死ぬ話』という、まったくそのままの内容の一巻完結のデビュー作品を、ブックオフで見つけて立ち読みして、妙に感動させられてしまったことがあったのだが、『響』を読み始めて、連載をいくつか経るまで、両者が結びついていなかった。あの、生硬なんだかあざといんだかよくわからない『女の子が死ぬ話』よりも、『響』ははるかにまっとうにエンターテイメントしていて、素直に応援できるのだが、『永遠の僕たち』を観て『女の子が死ぬ話』のことを思い出したのだった。
 こちらも若い女の子が脳腫瘍で死ぬ話だ(『女の子が死ぬ話』は白血病か何かだったかもしれないが)。若くして死を宣告されて、それを受け入れていく女の子とそれを見送る同世代の主人公の痛みがよく描けていて、どちらも美しい物語である。
 が、『女の子が死ぬ話』の「生硬なんだかあざといんだか」という感想が、ともかくも若い、可愛い女の子が死ぬという設定をぬけぬけと物語の核にしてしまうところがまぎれもなく「あざとい」でもあり一方で「生硬さ」とも感じられていたのに対し、『永遠の僕たち』は、映画としての描写力が洗練されすぎて、いまさら「あざとい」と言うのも間抜けに思えるし、むろん「生硬」でもありはしない。彼女の死後、葬儀の際に映画の中の主人公と彼女の思い出の場面のいくつかがフラッシュバックして、それを思い出している主人公が、泣くのではなくむしろ微笑みを浮かべるシーンは、本当に美しくて切ないのだが、なんだか綺麗すぎるとも言える。
 それに比べて以前「生硬」とも思えた『女の子が死ぬ話』は、実は女の子の死を、いくつかの連作短編的な構成で多面的に描いていて、その試みは意外なほど野心的とも思えてきた。
 かように、あれほど大量の資金や人手や手間のかかった映画は、桁がいくつ違うかというほどのローコストの漫画や小説と常に同じ基準で比較されてしまう。

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