2018年12月30日日曜日

『チョコレート・ドーナツ』-感動作であることは間違いないが

 やたらと「感動作」という触れ込みが目立つ。LGBTと障害児をモチーフとしているのだ。気楽に観られるかどうか怪しいが、見過ごせないとも思って。
 ゲイのカップルが障害児を養子として育てようとしてぶつかる困難を描く。「実話に基づく」という枕詞があったが、後から調べると、モチーフくらいだそうだ。
 問題は、それなのに物語が1979年のものとして語られることだ。ネットで見ると、感動の声と共に疑問の声もあるのだった。やはり。
 確かに、ものすごく感動的だった。涙なくして観られない。裁判シーンの弁論も主人公たちと子供の生活も、実に心に響いた。
 それでも、ゲイカップルに対する偏見から生ずる、障害児を引き取ることを阻止しようとする弁護士や判事の情熱のありようがわからない。少なくとも裁判シーンは、隠微な形で表れる偏見を描いているわけではない。ある論理によって主張がなされ、その理を認めるから裁判所が決定をする。だが、その情熱のありようがどうも飲み込めない。
 そこに、物語の舞台は1970年代なのだ、というエキュスキューズが登場する。だがなぜそれを今観るのだ? 歴史を記録しようという動機か? 感動させることが目的の映画らしいのに。
 現在、公的にLGBTに対する差別発言をすることが許されているとは思えないから、現在を舞台としてこの物語を描くならば、公的なコンプライアンスがどうなったとしても、なお残る偏見がどのようにこの問題として立ち現れるかが描かれるはずだ。
 だが舞台が1970年代だから、公的な偏見が許されてしまう。なんせそういう時代だったのだから。だから単に相手側の弁護士や判事はひどいやつだ、というふうにしか見えない。
 本当は、人間はある認識に立って世界を見るしかなく、その認識によって世界がどれほど違って見えるかが描かれなければならないはずなのに。

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