そのうえで、今年は、とりわけテレビドラマ部門で、不愉快な放送視聴となった。理由は単純に、こんなひどい作品が全国の頂点なのかと、納得のできない不全感が残ったことだ。本当に、このレベルが全国から集まった作品の上位3作品なのか?
本当にそうなら、今年の高校生たちがたまたまそうだったのだ、ということなのかもしれない。昨年の青森工業高校の作品は悪くなかった。好感がもてた(それでも下記の理由で、納得はしきれないのだが)。
だが例えば、放送されて観ることのできる上位3作品の中の順位にも不信感はある。この三つでこういう順位かぁ…と腑に落ちない思いが残る。ドキュメンタリーは、ほとんど横並びだよなあ、と思いつつ、とりわけ掘り下げが浅いと感じていたものが優勝だったりするし、ドラマはそもそもが全国の上位3作品がこれか、というがっかり感があるうえ、その中でも許しがたいほどひどいと感じられたものが準優勝だったりする。
もちろん、受容の感覚(つまり「好み」)は哀しいほどに人それぞれだ。流行の歌や芸能人に嫌悪感を抱いたり、自分の大好きな物に世人のほとんどが無反応だったりするのは子供の頃からの習いだ。
そして、多少なりとも客観的・理性的であるはずの「評価」も、これまた驚くほど人それぞれでばらつくものだと思い知らされる経験も枚挙にいとまない。それはこのブログに映画の感想を書く度に、ネット上での評価とのズレを思い知らされて、承知していることではある。
だが、ある映画が面白いと感じられるかどうかは、その日の体調や前日の過ごし方や、鑑賞前の期待値などによって大きく上下するものだろうが、コンテストで順位をつけるという行為が、こんなに「人それぞれ」でいいのだろうか。それとも単に、審査員と我が家の評価が食い違っているというだけのことなのか?
コンテストの結果に納得できる、つまりあの作品(あるいはパフォーマンス)はすごいと素直に納得できれば、負けた悔しさも来年へのモチベーションも健全でありうる。それはコンテストを通じてその分野の発展を図ろうとする目的のために必要不可欠の条件のはずだ。
だがそれよりも何よりも、コンテストの結果に納得がいかないことは、コンテストの参加者にとって悲劇である。外から見ていくら不全感だの不愉快だのいったところで、参加者当人の思いの激しさには無論及ばない。
そのことが想像できるからこその「不愉快」なのである。
こういう思いを、今回よりもずっと強く抱いたのは実際に、関わった作品をもって参加した平成22年のNHK杯放送コンテストの全国大会のときのことだ。その時には、煩悶のあまり、まったく縁のない(同じ年の全国大会に参加していた学校という点ではある種の縁もあるとは言えるが)学校の放送部宛に手紙を書き送ってしまった(学校の公式アドレス宛にメールで送ったのだった)。
ただ、上記のような不愉快を解消したかっただけだと言っても間違いではないのだが、同時に、それはその「当人」たちの感じているであろうそれをいくらかでも晴らしたいと勝手に思ってもいたのでもあった。「不愉快」自体がそこから生じてもいるからだ(本当に独りよがりの「勝手な」思い込みだが)。
それはこんな手紙だった。
突然お便りします。某県の高校で放送に関わっております。先日のNHK杯放送コンテストの決勝のNHKホールで貴校のテレビドラマの主演の女の子を見かけ、思いあまって声をかけてしまった者です。
NHK杯そのものは、高揚したお祭気分で過ごしたうえ、幸いにも本校は作品がひとつ決勝に進出し、3日間、楽しかったと言ってもいいのですが、直後に感じていた後味の悪さが、今に至るも、ずっと心にひっかかったまま、今も折に触れて思い起こされます。テレビドラマ部門の審査結果についてです。
昨年のNHK杯も3日間、準々決勝からテレビドラマを追っていたのですが、準々決勝会場で青森東高校「転校ものがたり」と、松山南高校「ねえさん」を見た時の驚きは忘れられません。それ以前のテレビドラマ部門出品は本校の過去の入賞作も含めて、所詮高校生が頑張って作ったもの、の域を出ませんでした。もちろん、作品をひとつ形にすることの労力はわかったうえで、物語にせよ映像にせよ、「これはやられた」と思わされるようなものにはお目にかかったことがなかったのです。一昨年の小野高校「この指とまれ」なぞも、そうした意味で、労作だとは思うものの、とても一般の鑑賞に堪えるような「作品」ではありません。
それが「ねえさん」の、見るものの心をつかむ力と、「転校ものがたり」のあらゆる要素における完成度は、完全に「作品」としてその出自を問わずに享受できるレベルでした。この二作品に、準決勝会場で見た沖縄開邦高校「保健室の住人」を加えた三作品は、完全に他作品と段違いの力をもっており、昨年のNHK杯決勝は、テレビドラマ部門については、その意味できわめて納得できる、いわば「当然」という印象で発表を聞いていました。その中でも完成度の点で図抜けている「転校ものがたり」が優勝であろうとは予想していたのですが、審査結果を聞いたときは、むしろ自分の判断と審査員の判断が一致したことに安堵したものでした。
今年度もまた準々決勝からテレビドラマ会場に居座って、玉石混淆の作品群につきあったのですが、私のいたA会場で青森工業高校「Tais-man」を見た時の驚きは、昨年の「ねえさん」「転校ものがたり」に匹敵していました。このレベルの作品が去年に続いて出てきたのか、と。
夜、宿でB会場の上映作品を録画してきた生徒達と、いくつか印象的だったという作品を見た際、北海道の小樽潮陵高校「椅子」と貴校の「遠過ぎた飛行機雲」に、やはりうならされました。とりわけ「飛行機雲」の、戦時下の高校生という設定もさることながら、前半で二人が飛行機雲の正体を知らないという設定が明かされるやりとりの時点で、これは尋常じゃないぞ、と居ずまいを正され、その後、最後まで、その世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が尋常なレベルではない作品の力に圧倒され続けました。
準決勝会場では、当然のように進出した「椅子」「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」をあらためて見直しながら、これは昨年驚かされた「転校ものがたり」らのレベルに肩を並べていると思っていました。あえて言うなら「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」の二作品が「転校ものがたり」と同等のレベル、「椅子」と「美術室のアイツ」がそれに次ぐレベル、以上4作品とそれ以外の作品との間にも大きな開きがある、というのが二日間見終わっての感想でした。
決勝会場では、昨年の結果に対する信頼から安心して、上記4作品のうち3作品が決勝に進出しているものと、当然のように思い込んでいました。それが、あの結果です。信じがたい、という驚きとともに思い出されたのは、準決勝の審査員の選評です。
貴校の作品が優良賞にとどまったのは、おそらくその完成度の高さゆえです。選評において審査員のNHKディレクターの中村氏は「映画っぽい作品が多かったという先生方の感想」があったという趣旨のことを最初に述べていました。それが第一声だったのは、おそらくこうした意見が審査結果を左右したことの表れです。中村ディレクターが個人的にそれについてどう考えているかは、あのコメントの中ではわかりませんでしたが、審査員団全体として、テレビドラマの審査においてわざわざ「映画っぽい」という感想を述べるのは、作品の、「作品」としての完成度(完結性というか)をとりわけ意識した上で、それを肯定的にか否定的にか判断していることの証左です。
そのうえで、今年度の準決勝審査員は、「映画っぽい」作品より、高校生が作る「テレビドラマ」を上位に置きたいと考えたのです。商業ベースにのせても評価できる完成度の高い作品より、あくまで「高校生らしい」、未熟な作品の中から入賞作を出したかったのです。
これは、私にはきわめて不健全な判断であると思われます。もちろん、完成度の高い「映画っぽい」作品より、「高校生らしいテレビドラマ」を選ぶという立場も、理屈としてはありうるのでしょう。放送活動は報道活動であり「作品」づくりの場ではないのだ、とか、完成された作品より未完成な作品の方が可能性を残している、とか、そもそも高校の放送活動は教育の一環なのだ、とか。
あるいは単に「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」の方が好きだ、とシンプルに思う審査員が多かったのだとすれば(ちょっと信じがたいのですが)、それはそれで仕方がないとも言えます。人の「好み」はいかんともしがたい。しかし、何らかの「評価」をするという意識があって、「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」よりも「美術室のアイツ」「空色レター」「恋文」を高く評価したのなら、その批評眼の欠如は驚くべきものです。
一方でおそらく私には、高校の放送活動というものへの思い入れが欠如しているのです。私は単に私を感動させてくれるものを見たい(聞きたい)。破天荒な未完成が面白いならそれもまた良し、です。プロの作るテレビ番組にはない「高校生らしさ」が面白いなら、結果オーライです。それが面白いなら。
でも単に未熟さや稚拙さでしかない「高校生らしさ」や、映画に嫉妬しているだけの「テレビドラマらしさ」をことさらに持ち上げて、完成度の高い作品を排除しようとする心理が、高校放送に携わる審査員に働いたように思われてならないのが、この審査結果に感じる後味の悪さです。
私が「不健全な」といったのは、生徒達が真摯に自分達の作品を作り上げようとするとき、それが自分達にはまったくあずかり知らぬ「高校生らしさ」という要素の有無によって評価されてしまうという事態です。作品は、単に自分にとって面白ければいい。最終的な評価者は自分だけだ(もちろんスタッフは複数いるので、それぞれにとっての「自分」ですが)、と信じて、より良いものを誠実に、真摯に作っていくしかない。その果てに、多くの人が認める「良い」作品が生まれるのではないでしょうか。そのことに誠実であり、なおかつ特別な才能のある者がスタッフにいた幸運なチームが、結局「良い」作品を作り上げるのではないでしょうか。そうした幸福な作品を、素直に讃えるコンテストでなかったことが(今年のテレビドラマ部門については)、残念でなりません。
決勝進出の三作品については、「美術室」は前述のとおり、それなりに納得のできる質の高さをもっていて、なおかつ「高校生らしさ」を備えていました。決勝に進出した時点で、これが優勝であるのは納得されるところです。しかし同テーマの作品としては2008年の優秀賞、青森県立田名部高等学校の「壁」の方が力があると思います。
「空色レター」は、ソツなく作ってくるなあと、悔しく思いました(「悔しく」というのは、それなりに手が届く、という感触を含んでいます。「遠過ぎた飛行機雲」「Talis-man」にはそのような対抗意識の生まれる余地がありません)。
「恋文」は「なんでこれが?」というのが感想です。むろん好感の持てる作品であるのは間違いないのですが、準決勝進出作品の中でこれが抜きん出ているとはとても思えません。よって決勝進出三作品にもかなりの開きがあるものと思われ、結果の順位は納得のいくものでした。
貴校の「遠過ぎた飛行機雲」は、本当に素晴らしかった。先に述べたように世界観、テーマ性、出演者の演技から演出、編集まで、あらゆる要素が、です。どんな才能の持ち主がいるのだ、と驚嘆したのですが、それもそれを支えるスタッフあっての作品です。ごくろうさま。そしておめでとう。このように「幸福な作品」を生み出せたことに対して。
主人公二人以外の誰の姿もないあの作品の世界が、思い起こす度になんだか郷愁のような懐かしささえ感じさせます。高校生が素直に夢を語ることの困難と、困難故の安穏を、戦時下という設定で描いたあのテーマは、実はそっくりこの現実の抱える困難の裏焼きではないか、と考えるのは穿ちすぎですか?
二週間以上も過ぎてまだもやもやと晴れないもどかしさをつらつらと書き綴ってしまいました。審査員に向かって言いたいことではありますが、こういうのは当人たちに向かって言っても仕方がないのが世の常です。せめて素晴らしい作品を作った皆様に、こういう感想を抱いた参加者が、きっといっぱい(とりあえず私の周りにも)いるのだということをお伝えしたくて筆を執りました。
またお互い、良い作品を持ち寄って、来年もお会いしましょう。
佐賀県立有田工業高校 放送部様
このメールを出してしばらくして学校に連絡が入った。所用で上京するこの放送部の顧問の先生が、上京のついでに面会したいというのだった。
思ってもみないことだった。
2時間ほど、あれこれと高校放送業界のことやら、「遠すぎた飛行機雲」その他の作品のことなどお喋りして、ついでに有田工業高校放送部の作品集DVDをいただいたのだが、今回、久しぶりに、DVDに収録されている「遠すぎた飛行機雲」を見直してみた。
もう何度観たかしれない。やはり素晴らしい。本当に奇跡的に素晴らしい。そしてそれは単なる偶然のような「奇跡」ではなく、まぎれもなく部としての力の集積でもあり、真摯で誠実な努力と、あまりに真っ当な技術力の賜物なのだった。
これが上記のような評価をされるNHK杯とは、いったいどこに向かっているのか。
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