2017年9月3日日曜日

「羅生門」とはどんな小説か 2 -教材としての価値、「主題」を設定する必要性

承前 ○ ブログ的前置き
 
 「羅生門」とは何を言っている小説なのか。それは何か自明なことなのだろうか。
 教材としての「羅生門」をめぐる言説の中でいつも奇妙に思うのは、この小説が、つまるところ「どんな小説か」についての一致した見解の存在が疑わしいにもかかわらず、教材としての価値は決して疑われていないらしいという点である。いわく「完成度が高い」、「緊密な世界を構成している」…。それは認める。だがつまるところ何を言っているのかを納得させてくれる「羅生門」論にはお目にかかったことがない。
 わからなくても読んで面白い小説はある。また「完成度が高い」ことは、それだけで鑑賞に値する。読者としては小説が何を言っているかがわかることは必須ではない。「檸檬」は長いこと、何を言っているかわからないが、好きだし、何か凄いことはわかる、という小説だった。村上春樹だって基本的にいつもわからない。
 問題は「教材として」である。
 「どんな小説か」というのは、いわゆる「主題/テーマ」のことだ。「羅生門」の主題とは何か。この小説は何を言っているのか。それがわからなくて、どうやって授業でそれを扱うことができるのか。
 といって授業で小説を扱うことは小説の主題を教えることだ、などと考えているのでは毛頭ない。
「羅生門」の内容は以上のようであるが、これから、主題はなどと教師が押しつけるのはやめたほうがよさそうだ。主題は、などとまとめたり論じたりするのは、教師ではなく学習者たちでなければならないように思われる。各人がそれぞれ読みとり、それらが対比され、より高次元の主題が、話し合いのうちにまとまれば、それは最も望ましい姿であろう。そこで、ここでは主題はなどと論ずるのはひかえておく。(筑摩書房「国語Ⅰ 学習指導の研究」より「主題と構成」鈴木醇爾・猪野謙二)
 
「羅生門」の主題は、作品を「どう読むか」「どのような角度からとらえるか」によって、見解がさまざまに分かれることだろう。(略)いずれにせよ、「どの主題が正しいか」ではなく、大切なのは「どのような〈読み〉に基づいて、そのような主題が見いだせたのか」という、その〈読み〉のプロセスなのである。(三省堂「国語Ⅰ 指導資料」長谷川達哉)
正論である。
 国語の授業としての教材の意義は、それを「読む」こととそれについて「議論する」ことの中にしかない。主題の提示が授業の目的ではない。小説の主題そのものは学習内容などではなく、そんなものはテストの「正解」などにもなりえない。といってテストの「正解」になりそうなことを教えるのが国語の授業でもない。
 だが、少なくともそうした読みや議論の決着点についてはそれなりの見通しがなければ、それを授業で展開することはできない。
 むろん、ともかく「授業」という形を成立させるだけなら、どこへ向かうべきかがわからずに、とりあえず内容を追うことに時間を費やすことはできる。あるいはこれまでに提言されているいくつもの切り口はある。「状況設定を描写の中から把握する」「下人の人物造型についてまとめる」「下人の心理の推移を追う」「動物比喩について考察する」「作品の世界観を味わう」…。
 だが、結局のところそれらが有益であるためには、なんらかの主題を設定するしかない。「羅生門」がどんな小説であるかという見通しがなければ、さまざまな授業過程の意義、適切さが判断できないからである。
 そうでなければそれは「作品」の読解ではなく、文法問題など、「例文」を使った言語技術の習得のための学習に過ぎなくなる。もちろん小説だろうが詩だろうが評論だろうが、教科書所収の教材文をそのように使う自由はある。だがそうした使い方で済ますのは惜しい。そうした文章が連なった「作品」そのものを読解するところまで教科書教材を使いたい。そのためには主題の想定が必要なのである。授業という場が最終的にそれを特定する必要はない。だが、読みはそこを目指さざるをえない。
 もちろん、世間で「羅生門」がどのように語られているかは知っている。だがそこには次のような問題がある。
これまで三十年以上、日本中のほとんどの高校生に読まれ、高校教師が必ずといっていいほど授業で扱ってきたこの作品は、しかしその主題がまだ確定していない。(桐原書店「探求 国語総合 指導資料」)
 
「羅生門」の主題は、一見明解なようだが、実はかなり幅があり、一つにしぼるのは困難のように思われる。(第一学習社「新訂国語総合 指導と研究」)
だからこそ、先の「正論」がある。いろいろに考えられるから、限定するのはやめよう、生徒に考えさせよう、そのことにこそ価値がある…。正論ではあるが、欺瞞的でもある。そんなことが本当にできるのか。それを理念通り実施している授業がどれほどあるだろう。実際に、生徒からどのような「主題」が提出されるというのだろう。
 だから、筆者は最近まで、何度となく機会のあった一学年国語授業の担当時において「羅生門」の授業をまともにしたことがなかった。「羅生門」が何を言っている小説かわからなかったからだ。ただ「日本人の教養として」と言って読むだけである。せいぜいが「にきび」のもつ象徴性についてと、それこそ主題について若干の考察をし、それでもみんなであれこれと考えていると楽しくなるものの、結局「とにかくわからない」といって終わる。せいぜいが2時限程度である。
 やはり、どんな教材であれ、考えるべきテーマがあってこその読解である。
 明示的に書かれていて、当然のように読み取れる情報は、こちらが指示しなくても生徒も読み取る。生徒がそれをするかどうかは、それを生徒自身がする必要があるように授業を設定するかどうかという問題で、こちらがそれを「教える」必要があるわけではない。それ以上の、ただ読んだだけではわからないはずの情報を「読み込む」ことを企図するならば、授業者にそうした見通しがなければならない。それがなければ授業は成立しない。

 一方で、世にあふれる「羅生門」論は、それぞれに「羅生門」の主題を語っている。「羅生門」について論じるということは、「羅生門」が「どんな小説か」を言うことにほかならない。それは教材としての「羅生門」ではなく、「作品」としての「羅生門」について語る研究なり批評なりに課せられた使命であり自由である。だがそれらの提示する「羅生門」像は「一つにしぼるのは困難」なのである。
 「しぼる」べきだと言いたいわけでは無論ない。繰り返すが、主題の提示が授業の意味だと考えてはいない。
 だが、上記のような指導書の言説に見られる「主題」論が、まっとうな正論であるにもかかわらず奇妙に言い訳じみて見えるのは、そうして提出されるさまざまな「主題」が、結局多くの読者を納得させていないにもかかわらず、それでも教材としての価値を疑ってはならないことが前提されているからである。
 あるいは百出する主題論についてはこんな言い方もある。さまざまな主題が想定できることこそ「羅生門」がすぐれた作品であり、すぐれた教材であることの証なのだ…。
 だがこれも詭弁にしか聞こえない。そうした多面性に価値があるとすれば、それぞれの「主題」がそれぞれに説得力があると思えればこそだ。設定される主題に応じて一つの作品がさまざまに見えてくる、というような多面性が認められれば、それは芸術作品として、また教材として価値あると納得できる。だが繰り返すが、筆者は、これまでに納得できる「羅生門」論を見たことがない。

いささか駄言を弄した。次回からもうちょっと具体的な読解に踏み込む。

 次節 3 「行為の必然性」の謎

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