2017年9月19日火曜日

『野火』 -ゆっくりと血肉化していけば

 このタイミングでこの映画を観るつもりになったのは、先日「羅生門」論の中で大岡昇平の『野火』に触れたものの、実は未読のはったりであることに後ろめたさもあり、といって小説を読むより先に以前から気になっていた塚本晋也版『野火』を観ることにした、という情けない事情による。
 さて、ブログを検索してみると、塚本晋也はここ3年見ていなかったのだな。『HAZE』や『悪夢探偵』を観たのはそんな以前とは思えないので、たぶん3年よりちょっと前。
 本作は、そんな塚本晋也監督作品で、大岡昇平の原作も、話の枠組みは知っている、という限りにおいて、想像を超える映画とは思えなかった。
 「想像」というのは「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」といった評価の枠組みであり、それらは無論高いレベルで描かれている。だが、それ以上のものを見せてくれるのでは、という期待をしてしまっていたのが、そうでもなかった。
 ジャングルなどの自然の美しさが、ちゃんとそれと感じられるくらいの映像で描かれ、それと戦争の対比はいい。役者たちの醸し出す味も充分味わい深い。監督自ら演ずる主人公が所謂「鬼気迫る」演技をするのも、リリー・フランキーが、どうして本職じゃないのにこんなにうまいのかと思うようなとぼけた狡猾さ、憎たらしさを出しているのも評価できる。中村達也はもともと良い顔をした人だったが、これもミュージシャンの余技とは思えない存在感だった。
 だがそこで評価すべき映画ではないはずだ。この映画はやはり「戦場におけるリアル」「戦争における加害者性」「戦争における狂気」…をこそ真っ当に感じさせるべきであり、それは確かに成功している。ネットの反応では、そもそもそれを見たがる人による評であるせいか、総じて高い評価を得ている。
 それでも、それ以上、ではなかった。
 たとえば、以前の作戦の失敗か、兵士の死体がごろごろと転がったままのフィールドを越えて向こうに行かねばならない作戦を実行に移すべく夜になるまで待った主人公たちが、闇に紛れてようやく動き出すと、いきなり目映いライトが点いて一斉射撃を受ける。その緩急は映画的には上手いなあと思う。
 だが、それに続く過剰な阿鼻叫喚の地獄絵図は想像のうちだ。塚本晋也ならそれくらいやるだろうと思う。
 つまり地獄絵図の過剰さでは「リアル」とか「狂気」は描けないのだ。その描写はよく思いついたなあ、とか、おお、よくできてるじゃん、とか、むしろ不謹慎な感想を抱いてしまう。だからネットにあるような「トラウマになりそうな…」といった感想はなかった。
 エピローグの、日本家屋の静謐と戦場の落差はすごかったが、そこでのトラウマは、やはり見たことのあるような場面に感じた。同時に、それもまた過剰だと感じた。あれが毎晩のことなら日常への復帰はできていないというべきだ。
 だからそれは、それができている人のリアルではない。

 映画から受ける感銘より、むしろ公式HPのメイキングの方が面白かった。困難の克服というありふれたドラマツルギーが、ちゃんと読む者を面白がらせてくれる。
 同時にこの映画を応援したいという感情も高まる。
 恐らく、「戦争」について考える時、折に触れ思い出して、ゆっくりと血肉化していけばいいのだろう。それが擬似的であれ、徐々に体験として定着しくように。

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