2017年12月28日木曜日

「夢十夜」の授業 3 ~第一夜も解釈する

承前

 さて、上記のような授業過程で明らかにしたいのは、小説を読むという体験がいかなるものであるかである。上記の作業を通してそのひとつの側面は浮かび上がってきたはずである。
 だが「第一夜」を読むことからは、もう一つ興味深い体験になりうる可能性が引き出せると筆者は考えている。それはやはりある種の「解釈」である。だがそれは「第六夜」で考察したような、主題を抽象したり、象徴を読み取ったりする「解釈」ではない。「第一夜」には、ある種の夢の構造が表出していると筆者は考えている。この点について生徒にも考察させたい。
 まず生徒に次のような問いを投げかけてみる。

    ①女との約束を守って待っていた「自分」は、なぜ「百年がまだ来ない」と考えたのか。
    ②物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。

 ①については、自分は途中で数えることを放棄しているから、カウントが「百年」に達していないということではないことを確認する。そのうえで、この二つの問いの間を整合的な論理で捉えて、端的に答えよ、と指示する。
 物語の因果関係が追える読者ならば、「百年経ったらきっと会いに来ると言った女が現れないから、百年はまだ来ていないと考えたのだ」と説明できる。つまり①の答えは「女がまだ会いに来ないから」である。これを裏返せば、「百年経ったことに気づいた」というのはつまり、百合を女の再来と認めたということに他ならない。したがって②の問いの答えは「女が百合になって会いに来たから」ということになる。①と②は裏表の関係として整合しあう。
 このように理解するときこの物語は、女が百合に姿を変えて会いに来ることで、死に際の約束が成就するハッピーエンドの物語だと考えられる。物語冒頭の欠落(喪失)が試練の末に埋め合わされることで結末するというのは、物語の基本的なドラマツルギーである。もちろん女がそのままの「女」でないことに、ハッピーエンドとしての十全な満足はない。だがその不全感も、喪失感として小説の味わいを増しているのであって、前半の約束が結末への推進力としてはたらく要請は、確かに満たされて終わる。
 さて、これを確認した上で、本文には本当に「女が百合になって会いに来た」と書いてあるのか、と問い直す。
 本文を見直してみると、そのようには書かれていない。ではなぜ「自分」は百合が女の生まれ変わりであることに気づいたのだろうか。もちろんそうした疑問は、擬人化された百合の描写によって読者にはあっさりと看過されてしまう。百合が女の生まれ変わりであることは自明であるように感じられる。明らかに作者はそのような印象を読者に与えようとしている。
 だが、やはり本文には明確にそのような思考の因果関係が書かれているわけではないのである。
 そこで②について、本文に基づいて、別の答え方ができないか、とあらためて問う。
 自分は首を前へ出して、冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
 「百年はもう来ていたんだな。」とこのとき初めて気がついた。
我々はこの一節に、思わず接吻してしまったその百合が女の生まれ変わりであることに気づく→女との約束が成就したことに気づく=百年が来ていたことに気づく、という論理展開をみとめる。もちろん「骨にこたえるほど匂」うのは女の官能性を表しているだろうし、「自分」が思わず接吻してしまうのも、それが女の生まれ変わりであればこそだ。
 だが、あらためて読んでみると、それは読者にそう了解されるのであって、「自分」がそのことに気づいたとは直截的には書いてはいない。とはいえ、そう考えることは、明確に書いてはいなくとも自然なことのように思われる。だからむしろ「本当にそう書いてあるのか」などと問われても、なぜわざわざそんな明白な論理に疑問を投げかけるのか、と生徒は思うかもしれない。
 そこでさらに次のように問う。

    ③「このとき初めて気がついた。」の「このとき」とはいつか。

 「自分」に約束の成就の気づきをもたらす「このとき」とは何を指しているか。問題は「とき」と指定されるある時点ではない。「この」が指している範囲である。右の論理に従えば、「このとき」とは、百合に接吻してから顔を離すまでの一連の動作が終わった「とき」のことだと理解できる。そこでこの行為と「気がついた」に因果関係があると、読者はみなす。この行為が気づきをもたらしたのである。
 だがそれが本当の論理的脈絡なのだろうか。
 素直に本文を見直してみると、「気がつ」く直前に「自分」は「暁の星がたった一つ瞬いてい」るのを見ている。「この」が指しているのはこの部分だと考えることはできないだろうか。
 すなわち、この一節から導かれる論理は、「自分」が百年経っていたことに気づいたのは、「暁の星」が瞬いているのを見たことに拠る、という因果関係なのではないか。
 そうした発想が誰かから提出されたら、これを先ほどのような二択の問いとしてあらためて生徒に投げかけてもよい。②「物語の終わりで、なぜ「百年はもう来ていた」ことに気づいたのか。」の答えとして次のどちらを支持するか。

a 女が百合になって会いに来たから
b 暁の星を見たから

 だが徒に生徒に混乱を与えてもしかたない。むしろaとbがどのような関係になっているかを考えるよう指示する。
 「暁の星」とは何を意味するか。もちろん、意味を見出せない要素は、この小説の中にいくらでもある。「真珠貝」然り、「星の破片」然り。あるいはそれらは、小説の構造を支える明確な「意味」をもった構成要素なのかもしれない。だが今のところ筆者の目には、それらはその「意味」について考えても仕方のないような単なる「ロマンチックな」ガジェットに過ぎないように映っている。「暁の星」も同様のギミックに過ぎないのだろうか。
 この部分について考察させるために「暁」の意味を生徒に確認しておく。「暁」とは何か、と聞いて「夜明けのこと」というような回答を引き出すだけでいい。そのうえでこの描写の意味することをあらためて問う。
 筆者の提示したい「解釈」とは次のようなものだ。
 「暁の星がたった一つ瞬いていた」という描写が意味するものは「夜明け」である。それを「暁の」星だと認識するということは、この瞬間に夜明けが近づいていることに気づいたということである。これはつまり、夢から覚める自覚が生じた、意識が覚醒しかけている、ということを意味しているのである。
 「自分」に百年の経過の気づきをもたらしたのは、百合の花の正体ではなく、この覚醒の自覚である。
 考えてみると、それまでいくつも通り過ぎていく「赤い日」は、それが昼間であることを意味しているような印象をまったく感じさせない。ただ書き割りのような空を背景として通り過ぎていくだけだ。昼に対応する夜も描かれていない。「自分」が眠ったり起きたりする記述もない。したがって、日が昇ったり沈んだりするからには、その度ごとに「暁」はあったはずなのだろうが、結局のところ時間がいくら経過していても、そこに本当の夜明けは来ていない。
 「自分」は本当は、女を埋めた時のまま、夜の底にひとり座り続けているのではないか。
 そして「自分」が「暁の星」を見た瞬間にようやく夜明けがおとずれる。これも、精確に言えば、目覚めの気配によって、それを「暁の星」だとする「解釈」がなされたと言うべきである。そして夜明けのおとずれが意味しているのは、夢の終わりである。その時、そこまでの女をめぐるあれこれ、そして「百年」が一夜の夢として完結するのである。
 とすると、先ほどの論理は転倒している。百合が女の生まれ変わりだと気づいたから「百年はもう来ていたんだな」と気づいたのではなく、むしろ百年が来ていたことに気づくことによって、百合が女の生まれ変わりであったという解釈が生まれた、というのが真実なのではないか。そしてそれが、物語を振り返ってみた時には忘却されているだけなのではないか。つまり「百合が女の生まれ変わりであることに気づいた」という認識は、いわば遡って捏造されたものなのではないか。
 この「気づき」に見られる奇妙な納得のありようは、紛れもない「夢」の感触として我々にも覚えがある。目が覚めて夢を思い出すとき、現実が夢に影響していたことを自覚できることがある。我々の語る夢は、覚醒時から遡って解釈されるのである。それは小説の論理が、読者によって解釈され、見出されたものであるのに似ている。先の「捏造」は「自分」がしたのではなく、実は読者がテキストを解釈する過程でしたのだと言える。

 「百年」とは「永遠」のことだ、などというしばしば目にする「解釈」に対してここで筆者が提示するのは、「百年」とは夜明け、つまり夢の終わりまでの期間を意味しているのだ、という「解釈」である。夢の終わりによって約束が成就するならば、確かに女との再会は同時に直ちに訣別をも意味することになる。とすればやはりこれも女との恋愛の不可能性を意味しているという言い方もできないわけではないのだが、そうした言葉遊びは、それほど魅力的なものだとは筆者には思えない。
 生徒にはもちろんこうした「解釈」を、この小説の一つの読みとして体験させたいだけで、それを「正解」として「教える」つもりはない。生徒自身の読みこそが問われるべきなのだ。右のような読みは、小説の読みの可能性の一つとして提示するだけだ。
 だが、国語科の授業として、このような読みの体験をさせることには意味があるだろうという感触はある。小説の読解の自由度、可能性を感じさせることにも意味がある。だがそれだけでなく、小説の読解がどのようにして成立するかをあらためてテキストに則って検討すること自体がここでの授業の本義である。それを成立させる教材として「夢十夜」は豊かな可能性をもった小説だといえる。

 この授業の最新版はこちら→  

0 件のコメント:

コメントを投稿