2017年12月31日日曜日

『スティーブ・ジョブズ』-高度な技の応酬としての口論

 以前この題名の映画を観た時には、こちらの映画と別であるとは知らずにいて、観終わってから調べているうちに話題の映画が別なのだとわかったのだった。
 さてこちらがダニー・ボイル監督作品だけあって、当然話題性もある。期待もある。そして実際に観終わっての満足感も充分なのだった。

 だが前のジョシュア・マイケル・スターン版を観ていたことが幸いしたのも確かだ。ダニー・ボイル版は、スティーブ・ジョブズやアップルに不案内な者が見るにはいささか辛い。飛び交う会話に登場する用語や人名がもつ文脈を理解していることは、その会話を理解するために必須だし、エピソード間の歴史的事実を知らずに登場人物たちの感情の軋轢を捉えることも難しい。
 もう一つ、幸いしたといえばレンタルのDVDを、吹き替えで観ていたのだが、同時に字幕も表示していたのだが、これがなければニュアンスのわからない科白がどれほどあったろうかと思うと、その偶然を喜びたい。
 吹き替えと字幕の翻訳者が別なのだ、おそらく。
 二種類に翻訳されることでそのニュアンスがようやくわかる、という科白が多いというのは、それだけ含みのある表現をしているということなのだろう。
 にもかかわらず、この映画の科白の量たるや、『ソーシャル・ネットワーク』並みだなあと思っていると、脚本のアーロン・ソーキンは『ソーシャル・ネットワーク』も書いているのか! まったく恐るべきスピードで科白がやり取りされるのだ。
 この映画は基本的に口論で成り立っているといっていい。スティーブ・ジョブズによる、三つの有名な製品発表会の開始前を描き、さて発表会が始まるというところで肝心の発表会そのものは描かれずに顛末だけが紹介されて、また次の発表会開始前に時間が跳ぶ、という展開が2回繰り返される。その発表会開始前の殺気立って慌ただしい緊迫した時間の中で、これでもかというほど密度の高い口論が繰り返されるのだ。
 一つ目のマッキントッシュ発表会前のパートを観終わったところで再生を一時停止して、久しぶりに一緒に映画を観た息子と、これはすごいと言い合った。基本的には脚本がよくできているのが前提ではあるが、役者の演技も、演出も編集も、そのテンションを支えきらなければこの緊迫感は出ない。
 そして、その口論のすごさとは、その論理の拮抗と、プライドやらコンプレックスやらのからみあった感情の拮抗が、強い説得力をもって観客に伝わるということだ。これが単なる感情のぶつかり合いだとか水掛け論だとか、ジョブズがエキセントリックで嫌な奴だとしか感じられない人は(という評をネットで見るのだが)、「議論」というものができない人なのだろう。惜しいことだ。
 「議論」によって、物事や価値観の多面性、戦略の有効性についての可能性の分岐、人間の感情の重層性が見えてくる過程は、ぞくぞくするほど楽しかった。高度な技の応酬が見応えのあるスポーツ観戦のように。
 そして、時を経た三回の議論において、スティーブ・ジョブズの「成長」が描かれているのも、素朴に快い。堂々たるハッピーエンドに、終わって感じる満足感も高い。

0 件のコメント:

コメントを投稿