「第六夜」について上記のように「解釈」することは、これが「夢」そのものではなく「小説」という物語として語られる以上、可能なアプローチとして認めてもいいように思われる。
同様に「第一夜」にもさまざまな謎が、いかにも「解釈」を求めているような顔で並んでいる。だが、「第一夜」が、「第六夜」のように、全体としては、どのような意味であれ腑に落ちる「解釈」の可能な物語だと思ってはいない。なぜ女が唐突に「死にます」などと言うのか、「百年経ったら会いに来る」とはどのような意味か、「星の破片」「真珠貝」にはどのような意味があるのか、などといった、いかにも「謎めいた」設定に明確な意味を見いだすことに手応えのある見通しはない。むしろ何も言ってもこじつけになりそうだという予想はある。「百年とは永遠を意味しているから、『百年経ったら会いに来る』とは再び会うことの不可能性を意味しているのだ」とか、「星の破片やはるかの上から落ちてくる露など、天との交感が暗示されている」などというしばしば目にする「解釈」は、何かしら腑に落ちるような感覚を与えてくれはしない。だから授業では結局のところこの物語を、「解釈」を目的として「使う」つもりではない。
筆者にとって「第一夜」を教材として授業で扱う目的は、小説における描写の意義について考えさせることである。
まず生徒に「第一夜」を、一〇〇字程度に要約させる。
冒頭に、読者はすべての小説を「解釈」しているわけではないと述べた。また「第一夜」は、「第六夜」のようには解釈しないとも述べた。だが要約とは既にその過程にテキストの解釈を前提とする行為だ。テキストに書かれた何が取り除いてはいけない骨なのかという判断自体が既にある種の「解釈」に拠るからである。
だがそれは「第六夜」で行ったような、抽象化を伴う解釈ではない。物語の各要素の論理的な因果関係を判断する「解釈」である。骨として選ばれた要素が、物語中の具体/抽象レベルのままでいいのである。
授業者による要約を紹介して授業をその先に進める。
百年経ったらきっとまた逢いに来ますと言い残して死んでしまった女を墓の前で長い間待っていたが、そのうち女の約束を疑うようになった。すると墓の下から茎が伸びて目の前に百合の花が開いた。百年が来ていたことに気づいた。(105字)
右の要約において抽出した骨組みと、完成された作品の間にあるものが何なのかを考えさせる。この時点で、作品とは骨以外に何でできているかを問う。様々な答えを許容しつつ、生徒に挙げさせたい語句は「描写」と「形容」である。後の具体例を使って誘導してもいい。
それから、生徒に次のような指示をする。
取り除いて前後をつめてしまってもストーリーの把握の上で支障のない「形容」および「映像的描写」に傍線を引け。
冒頭の一段落で具体的に見てみる。
腕組みをして枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、静かな声でもう死にますと言う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真っ白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色はむろん赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますとはっきり言った。自分も確かにこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにしてきいてみた。死にますとも、と言いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真っ黒であった。その真っ黒な眸の奥に、自分の姿が鮮やかに浮かんでいる。斜体部分は、取り除いて前後をつめてしまっても、ストーリーの把握の上で支障がないばかりか、日本語としても不自然ではない「形容」である。傍線部もまた、除いてもストーリーの把握には支障のない「描写」である。上のように「描写」の中にもさらに「形容」が施されている。
試みに、取り除いて、つめてみよう。
枕元に坐っていると、仰向きに寝た女が、もう死にますと言う。死にそうには見えない。しかし女は、もう死にますと言った。自分もこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、ときいてみた。死にますとも、と言いながら、女は眼を開けた。眸の奥に、自分の姿が浮かんでいる。右に示したとおり、「取り除いてもかまわない」かどうかというのは、実は判断の揺れる問題で、この部分がそれに該当する「正解」であるかどうかを厳密に判定はできない。また「形容」(波線部)と「映像的描写」(傍線部)も厳密な区別ではない。だが、考えることで、この小説の文体の特徴を実感することができる。時間をおいて生徒同士で確認させるか発表させるなどして、その適否を検討していく。
この作業を通して浮かび上がるこの小説の文体の特徴とは何か。それはいわば、過剰な「叙景」である。「第一夜」には異様とも言える密度で、形容詞や形容動詞や副詞によって、映像が修飾されている。またそもそも、読者に映像を喚起させる描写が、これもまた、しつこいほどに念入りに配置されているのである。
実際にそのようにして「つめ」てみた文章を朗読する。自分が傍線を引いた部分との違いを各自に意識させる。そこも「つめ」られるのか、などと思いつつ、生徒はこの小説における描写の密度を実感するはずだ。文字数にして半分ほどに原文をつめてみても、ストーリーを追う上ではほとんど支障がないどころか、物語的には原文とほとんどかわらないような印象があるのである。逆に言えば「第一夜」には、ストーリーを語る上で必須とは言えない描写や形容が、過剰とも言える密度で書き込まれているのである。
さて結局のところ、要約された作品の骨組みと、元の作品との間には何があるか。
漠然と、完成作品の方が「詳しい」「細かい」とは生徒にも言える。だが具体的に、肉として、皮膚として、衣服として塗り重ねられたものは何なのか。
まずはプロットの展開がある。だがそれでも完成作品の半分ほどの量なのである。そのうえにあるのが、先ほど傍線を引いた「形容」「描写」なのである。これらは小説にとってどのような機能を果たしているか。視覚的想像を喚起する、感情移入させる、臨場感が増す…。どのような表現であれ、生徒に考えさせたい。
こうした授業過程を経た後で、たとえば茂木健一郎の「見る」という文章を読む。茂木は「見る」という行為について次のように述べる。
「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。(略)たとえばこの一節に述べられていることを上記の授業過程と比較するよう指示する。何が言えるか(実際に生徒に読ませるのはもっと長い文章である)。
視野の中に見える「モナ・リザ」の部分部分が集積してある印象を与えることで人間の脳は深い感銘を受ける。印象を結ぶ脳の編集、要約作業の過程で、ある抽象的な「要約」が生まれるからこそ、「モナ・リザ」は特別な意味を持つ。
しかし、その「要約」だけでは、「モナ・リザ」の前に立つという体験を再現することはできない。その絵の前に立つとき、さまざまな要約が脳の中では現れ、深化し、変貌し、記憶される。その一方で、絵を構成する色や形などの細部は、決してそのすべてをとどめておくことができない「意識の流れ」の中で、時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる。
何かをつかみつつも、指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われつつあるもの。その豊穣な喪失こそが、絵を見るという体験の本質である。
ここにある「モナ・リザ」が「夢十夜」に、つまり「絵を見る」が「小説を読む」に対応しているのである。
「要約」なくして「絵を見る」ことはできないが、「絵を見る」という体験は同時に「絵を構成する色や形などの細部」が「時々刻々失われていく体験として、私たちの魂を通り過ぎる」ことでもある。「夢十夜」を読んで、それが何を語っている小説なのかを認識するために、我々は「解釈」(「第六夜」で試みたように)したり「要約」(「第一夜」で試みたように)したりする。それが小説を読むということでもある。
だが一方で、その時「指の間から砂がこぼれ落ちるように圧倒的に失われ」てしまうものこそが小説の「豊穣」でもあるのである。漱石の紡ぐ物語は、その「豊穣」によってこそ小説たりえている。
続く 「夢十夜」の授業3 ~第一夜も解釈する
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