2017年12月22日金曜日

アクティブラーニング「ブーム」の弊害

 忘れないうちに書き留めておく。
 若い先生方の授業をちょくちょくのぞきに行って、どうも気になっていることがある。複数の要素にわたっているのだが、根は一緒、という気もする。たぶん昨今のアクティブラーニング「ブーム」の弊害、というあたりで。

 アクティブラーニングの弊害というと、しばしば語られるのは知識の重要さがないがしろにされる、という弊害だが、国語についてはそもそも生徒に知識を伝授することが少ないので、アクティブラーニングばかりでなく講義も必要だ、という話ではない。あくまでアクティブラーニングはいいことに決まっているという前提で、そのうえで注意すべき落とし穴の話である。

 まずは、アクティブラーニングといえば、というくらいに定番の、「グループワーク」と称する班を作っての話し合いと、その間の机間巡視だ。
 基本的に国語科が言語の学習である以上、話し合いは必須の要素でもあり、有用な手法でもある。我が授業でも半分くらいは話し合いの時間だ(残りのほとんどは発表とその応答で、説明や講義などはわずかだ)。
 だがそれには、話し合うに値する問いが提示されていなければならない。話し合うに値する問いとは、考えるに値する問いということでもあるが、同時に他人の考えを聞くことに価値のある問いということでもある。そして他人に説明するために言葉にすることに学習意義がある。
 それには問いの難易度の設定と、想定される回答のバリエーションが保障されていなければならない。易しすぎては話し合いはすぐに終わってしまうし、難しすぎるとあきらめてしまう。いきなり答えることはできないが、時間をかけて掘り下げていくうちに何事かが発見されるという見込みがなければならない。あるいは、意見の相違を生むか、そもそも個人の「感じ」を各自が語るような問いでなければならない。
 こうした問いを、ある程度コンスタントに授業に供給していくことは、若い先生方には難しい(といってベテランの授業でそれがなされているのを見たことがあるわけでもない)。
 またこうしたグループワークに入る前には、一人一人の生徒がある程度考えてからでないと有効に話し合いが始まらない。だから、問いを投げてから話し合いに入るまでに時間をおいて、自分なりに問題を咀嚼し、自分の考えをそれぞれの生徒が持つ(持とうという自覚を持たせる)必要もある。
 「グループワーク」の称揚が、班活動を促すから、先生方はすぐに生徒たちに、机を班隊形に並べさせる。そこに、話し合いには不適切な問いが投げかけられたり、あるいは生徒各自が考える態勢を調えていないと、話し合いはすぐに無秩序なお喋りと化す。さらにそれが全体での検討の場面にまで流れ込んで、しばしば授業が阻害される。

 班活動にともなって称揚されるのが授業者による机間巡視だ。
 だがこれも、見ていると必ずしも有効に授業を活性化してはいない場面に出くわす。
 教室全体の話し合いはとうに集中力を欠いているのに、一部の班の話し合いに教員が対応していて徒に時間が浪費されていくことがしばしば起こっているのだ。
 教員が参加することで話し合いが有用なものとなるのなら、全体でやればいいし、やらなければならない。
 筆者の授業では、話し合いの際に机を動かすよう指示することは少ない。椅子の向きだけで話し合いの隊形を作らせる。補足説明や全体での発表の際には、椅子の向きだけで態勢をもどす。
 また机間巡視はそれほどせずに、大抵は動かずに全体を見渡しながら、聞こえてくる声を拾っている。話し合いが有効に行われているかどうかを、全体的に把握して授業を進行していく方がいいのである。
 様子を見て補足の説明が必要な場合も多いし、ときどき定期的に燃料を追加することもある。長いスパンの問いであるときこそ、集中力の持続と、議論レベルの班ごとのばらつきを揃えるために、問いは何段階かにわける必要があるのだ。話し合いを続けさせるには、それなりのコントロールが必要なのである。そのためには机間巡視をしてしまうと全体のコントロールを失うことにもなりかねない。

 次に気になるのは、授業の際に教師の配るプリントである。
これも、板書とともになされる講義を生徒がノートに写す、といういわゆる「ボード&ノート」授業スタイルに対抗して、教員手作りのプリントは、生徒が能動的になるかのようなイメージがある。
 だが実際には板書の劣化版というようことになっているプリントも多い。生徒が書き込むべき空欄が指定された、ほぼ板書予定の内容がプリントされて生徒に配布されているのである。
 思うに、プリントを作るのは、それによって教員が何か仕事をしている気になるというのと、授業の流れを迷わずに済むという安心が得られるところが若い先生方をひきつけるのだ。
 一方、生徒の側からみると何が起きているかというと、全体の流れが一望できるのはいいが、実際には生徒は空欄に何かを書き込むことが自己目的化しているように見える。全体の流れを把握するよりも、空欄にしか注目しない、というのが現状なのだ。
 しかもそこに書き込まれることは予め決まっていて、いわばその「答え」が授業という場に提出されさえすれば良いというふうに生徒は捉えているように見える。そしてこうしたプリントを作る先生は、その「答え」を板書するものなのだ。生徒は板書されたものを空欄に書き写す。
 これはいったい何の儀式か?

 ここまでくると次は板書の電子化である。板書予定の内容をパワーポイントなどで作成して、プロジェクタでスクリーンに投影する。
 プロジェクタによる映像や文字情報の提示は、有用な場合もあるとは思うが、基本的には作成の手間と学習効果が見合っていないというのが実態であると思う。
 またこれも、事前に内容が決まっているという点で、プリント同様の弊害がある。
 最初から、授業が何かの知識を「説明する」「伝達する」というイメージで成立しているときには、板書の電子化もプリントも、たぶんプリントに代わる今後のタブレット利用も有用なのかもしれない。
 だが国語の授業はそのときそこで何事かが生み出される場なのだ。もちろん授業者にはある程度の見通しはあるが、それでもその場で生み出される授業全体の成果を記録できる状態になっているかどうかは重要である。板書は、そのときに語られながら書かれる瞬間を生徒が見ていることに意味があるのだし、ノートは板書を写すものではなく、むしろ板書に先立って書かれるべきである。

 班隊形も机間巡視もプリントも電子機器の活用も、もちろんそれ自体に善し悪しがあるのではない。ただ無条件に良いもののようなイメージが先行して手段が自己目的化することのないよう心がけるべきだというだけのことである。
 そしてアクティブラーニングも、学習にとっての有効な方法に過ぎない。それを実行することが無条件に良いわけではない。
 自己目的化の陥穽は常にそこにある。

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