2017年11月19日日曜日

「羅生門」は「エゴイズム」を問題にしているか

 あるクイズ番組で「東大生・京大生が選ぶすごい本」というアンケートをやっていて、1位は案の定「こころ」なのだが、「山月記」や「羅生門」が上位に入ってしまうあたり、東大生・京大生もろくに読書をしていないことが見て取れる。これらは「読書」ではなく、単に高校の授業で読んだだけだろ。
 で、「羅生門」は4位なのだが、その紹介に「人間のエゴイズムをテーマとした」などと表現されているのを見て、またもやモヤモヤと居心地の悪い気分がしたのだった。

 どういうわけで「羅生門」から「エゴイズム」という言葉が発想されるのか?
 とんとわからぬ。
 あの小説の中で下人が「盗人になる」ことに迷っているのは、ある種の犯罪行為に及ぶかどうかの選択には違いない。そもそも犯罪は他人の権利を侵害するから悪いということになっているのであって、その意味ではどだい利己的なものに決まっている。それはあまりに自明のことだから、わざわざ「エゴイズム」をテーマとして浮上させはしない。犯罪行為がエゴイスティックなことはわかりきっているのだから。
 つまり、エゴイズムを問題としてとりたてるには、強い「悪」を対象とするのは不適当なのだ。したがってエゴイズムをテーマとするならば、取り上げるのは、犯罪などの違法性によって裁かれたりはしない、いわば感情的な痛みを他人に与えるような行為が利己的な動機によっておこされる場合であり、その意味では「こころ」が表面的には、そのような物語であると思われるのはよくわかる。
 だが「羅生門」を読んでいて、それが「エゴイズム」という言葉を引き出す必然性があると思える人は、どういう思考をたどっているのか、本人に聞いてみたい。どうもそういう人に出会える機会がないので。にもかかわらずそうした現象そのものに出会う頻度は多くて。
 そうした慣習が、単に吉田精一、三好行雄による「羅生門」理解を引用しているにすぎないということはわかるが、どうしてそれをそのまま口にできるのかがわからないのだ。

 「羅生門」の中に「エゴイズム」と呼ぶべき要素はあるかといえば、ある。だがそういうことなら「エゴイズム」に該当する要素のない小説など凡そ存在するとは思えず、「羅生門」が「エゴイズム」を主題としているかといえば、まるでそのようには見えない。
 もちろん「羅生門」は下人の引剥という行為をどのように論理づけるかが主題であり、それを老婆の語る自己弁護の長広舌に負っている限り、「エゴイズム」という言葉が想起されるのはやむをえまい。だがこの小説を読んでそのように読める人は、いったい、本当に小説を読んでいるのだろうか。
 芥川は「羅生門」において、「エゴイズム」などという自明の観念について、何らの解剖もしていない。それどころか逆にこの物語は道徳と呼ばれるものの観念性を暴いているのである。

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