始まりこそ、SF的映像美のあまりの完成度に感嘆して、これは『ゼロ・グラビティ』並みじゃねえか! とも思ったのだが、聞けば実写だという乗り物や住居はいいのだが、CG合成のドローンが結構にチャチいシーンを見てからそこのところもちょっと冷めた。
そうなるともういけない。物語は実に謎の連続で引っ張られる…ということになっているんだろうが、どうもありがちなSF物の焼き直しの連続から一歩も出ていないので、最後まで特に感心することもなく観終えてしまった。
確かにあちこち、これはサスペンスフルな展開のはずだ、とかここは伏線が回収されて、ああそうか! と思わせるつもりなのだろうとか、ここは感動的なはずだ、とか、あれこれの面白さをしかけようとした意図はわかる。だが安っぽくすまい、とか、面白くしよう、とか、考えていても、実際には必ずしも面白くなるわけではない。その「面白さ」が実現するにはもう一歩のなんらかの才能だか偶然だかが必要なんだろう。残念ながらそれは実現していない。
わずかに、主人公のトム・クルーズ演じるジャックの、物語前半におけるパートナー、ヴィクトリアの、ジャックに妻がいたことがわかる中盤の不安や悲しみが胸に迫ったのだが、後半はすっかり本妻のジュリアがヒロインになってしまって、観客はヴィクトリアにとって残酷な「ハッピーエンド」が訪れる結末に感動しなくてはならない。だが、報われないヴィクトリアに落ち度があったような描写や、後半にその悲しみが思い出されるようなバランスの配慮が見られないのも残念だ。救われない不全感がある。
さて、ジャックがジュリアやわずかに残った人類を救うために自己犠牲になったあと、残されたジュリアと娘のもとに、ジャックのクローンがあらわれる結末は、感動的なハッピーエンドのつもりなんだろうが、ネットで見ると、ここに引っかかりを感ずる観客が多いようだ。主人公のジャック49号は死んでしまったのに、ラストで現れた52号がその代わりになるのか? という疑問と、52号以外のクローンはどうなっているのか? という疑問があるためだ。
後者の疑問についてはこんな動画も作られている。
だが、封じられていた記憶を蘇らせたのは49号だけだったのだろうし、52号は49号との接触で記憶を蘇らせたということなのだろうから、他のクローンは自分の持ち場以外の場所を「汚染区域」として、それぞれの担当区域以外に出て行かないまま、テットの破壊後に死んでしまったと考えるべきなのだろう。したがって上記の動画のようなことが起こらないという一応の理屈は立つ。
もうひとつ、クローン52号は49号の代わりになるのか、という点については、ジュリアとジャックの関係は、そもそもこの映画中の物語の前、60年以前にできあがっているのだから、観客がいかに49号に思い入れていても、ジュリアにとって49号と52号の違いはそれほど大きくないのだと考えられる。
この結末については萩尾望都の「A-A’」を思い出した。再び会えた愛しい相手がクローンであることは、それが新しい出会い(関係を築いた相手は死んでしまって、出会う前のコピーであるクローンと再会する)であってさえ、かくも感動的でありうる。まして上記の通り、52号が49号の代わりに帰ってくることは、ジュリアとその娘にとって十分なハッピーエンドたりうる。
さすがにこの結末はヴィクトリアの悲しみとともに胸に迫るものがあった。映画全体の評価を著しく高めるほどではないにせよ。
そうなるともういけない。物語は実に謎の連続で引っ張られる…ということになっているんだろうが、どうもありがちなSF物の焼き直しの連続から一歩も出ていないので、最後まで特に感心することもなく観終えてしまった。
確かにあちこち、これはサスペンスフルな展開のはずだ、とかここは伏線が回収されて、ああそうか! と思わせるつもりなのだろうとか、ここは感動的なはずだ、とか、あれこれの面白さをしかけようとした意図はわかる。だが安っぽくすまい、とか、面白くしよう、とか、考えていても、実際には必ずしも面白くなるわけではない。その「面白さ」が実現するにはもう一歩のなんらかの才能だか偶然だかが必要なんだろう。残念ながらそれは実現していない。
わずかに、主人公のトム・クルーズ演じるジャックの、物語前半におけるパートナー、ヴィクトリアの、ジャックに妻がいたことがわかる中盤の不安や悲しみが胸に迫ったのだが、後半はすっかり本妻のジュリアがヒロインになってしまって、観客はヴィクトリアにとって残酷な「ハッピーエンド」が訪れる結末に感動しなくてはならない。だが、報われないヴィクトリアに落ち度があったような描写や、後半にその悲しみが思い出されるようなバランスの配慮が見られないのも残念だ。救われない不全感がある。
さて、ジャックがジュリアやわずかに残った人類を救うために自己犠牲になったあと、残されたジュリアと娘のもとに、ジャックのクローンがあらわれる結末は、感動的なハッピーエンドのつもりなんだろうが、ネットで見ると、ここに引っかかりを感ずる観客が多いようだ。主人公のジャック49号は死んでしまったのに、ラストで現れた52号がその代わりになるのか? という疑問と、52号以外のクローンはどうなっているのか? という疑問があるためだ。
後者の疑問についてはこんな動画も作られている。
だが、封じられていた記憶を蘇らせたのは49号だけだったのだろうし、52号は49号との接触で記憶を蘇らせたということなのだろうから、他のクローンは自分の持ち場以外の場所を「汚染区域」として、それぞれの担当区域以外に出て行かないまま、テットの破壊後に死んでしまったと考えるべきなのだろう。したがって上記の動画のようなことが起こらないという一応の理屈は立つ。
もうひとつ、クローン52号は49号の代わりになるのか、という点については、ジュリアとジャックの関係は、そもそもこの映画中の物語の前、60年以前にできあがっているのだから、観客がいかに49号に思い入れていても、ジュリアにとって49号と52号の違いはそれほど大きくないのだと考えられる。
この結末については萩尾望都の「A-A’」を思い出した。再び会えた愛しい相手がクローンであることは、それが新しい出会い(関係を築いた相手は死んでしまって、出会う前のコピーであるクローンと再会する)であってさえ、かくも感動的でありうる。まして上記の通り、52号が49号の代わりに帰ってくることは、ジュリアとその娘にとって十分なハッピーエンドたりうる。
さすがにこの結末はヴィクトリアの悲しみとともに胸に迫るものがあった。映画全体の評価を著しく高めるほどではないにせよ。
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