2015年5月8日金曜日

『塔の上のラプンチェル』

 ディズニー版のCGアニメの。
 この間の放送を録画して、それを二晩に分けて観たのだが、こういうのが既に映画に対する冒涜のような気もする(というよりむしろ「当たり前だ!」と言われてしまうかもしれない)。だが読書ではこういった、一部ずつを空いた時間に読み継ぐという享受の仕方が一般的だ。それは、それが望ましいというわけではなく、単に日常生活上の制約にすぎず、本当はやはり「一気読み」がいいのだろうが。
 さて、二晩に分けて観た『ラプンチェル』は、残念だった。最初の晩に娘と「ちょっと」と思って頭のところだけを観ようと思って、あれよと半分過ぎまで観てしまったのだが、それは素晴らしかった。映像も物語もラプンチェルの人物造型も、ディズニー映画の期待を裏切らないレベルで作られていると感じた。逃走シーン(追いかけっこ)の空間構成も見事だった。
 たぶんそのまま最後まで観てしまえば良い気分で観終えることができたのだ。だが、一日おいて後半を観ると、最後まで、気分の高揚を感じることもなく、気がつくと映画が終わっていた。集中力もなくて緻密に考察できるわけではないが、おそらく物語としては後半にそれほど感動的な何かがあるわけではなかったのだ。とりあえずは物語をたたんでおしまい、というだけで。

 一点。むしろ気になったことを。
 ラプンチェルが自分の生い立ちについて気づいてから、育ての親のゴーテルに対していきなり敵対してしまうのに違和感を覚えた。塔から落ちていくゴーテルの姿はデジャブだ。『マレフィセント』で、ステファン王が落ちていく姿が、そのドラマツルギーに対する違和感とともに思い出されたのだった。
 とはいえ、物語の構造は逆転している。「マレフィセント」では、プリンセスは育ての親のマレフィセントと幸せな結末を迎え、実父のステファンは「敵」として城から落下していく。一方「ラプンチェル」では、プリンセスが実の両親の元に帰り、ステファン同様、仰向けの姿勢で落ちていく「敵」を上から見下ろす構図で、育ての親のゴーテルが塔から落下していく。
 乳児誘拐という共通性の上に立って、この育ての親の扱いが正反対なのはなぜか。それはまあ原作の物語がそうなのだから仕方がない。だがそうした差異をよりもむしろ同質性の方が強く印象に残ったのだった。それはラプンチェルの、育ての親に対する執着のなさと、オーロラ姫の実父ステファンに対する執着のなさだ。それはキャラクター造型の問題と言うよりはドラマツルギーの問題だと思う。ステファンに対する、というのなら、昔恋仲だったマレフィセントが、ステファンに対していともたやすく敵対してしまうのも同様だ。どうしてそこにアンビバレントな迷いを描かないのか。
 「マレフィセント」を観たとき、どうしようもなく、その直前に観た「八日目の蝉」を思い出してしまった。これもまた幼児誘拐によって形成された母子関係を描いた物語だったが、二人の関係は、どうしようもない「かけがえのなさ」を孕んでいた。そのことの是非・正否・善悪ではない、唯一性・単独性。人はそれにどうしようもなく縛られるものではないのか。
 だが二つのディズニー映画では、そうした唯一性よりも、単なる善悪の二分割によって、生まれてから十年以上を共に過ごした関係があっさりなかったことになったり、血のつながりや子供時代の関係がなかったことになったりする。
 これがアメリカ文化の何かを意味している、などと大風呂敷を広げるのはやりすぎかとは思うものの、脚本のシステマチックな練り込みとあまりに不調和な拭い難い違和感が不思議なのだった。

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