2016年10月9日日曜日

授業で詩を読むことは数独を解くことに似ている

 珍しく詩を教材として扱って、あらためて思うのだが、基本的に国語科の授業として読む上では詩も小説も評論も、古文も漢文も、やることは要するにテキスト解釈なのだった。
 たとえば「永訣の朝」をやっているときに、「賢治の宗教観とかを扱うんですか」と知り合いの教員に聞かれて、それが自分にはあまりに想定外だったことに感慨を覚えた。考えもしなかった。なるほど、そういう発想もあるのか。一般的には。
 あるいは「永訣の朝」にこめられた兄の悲痛な思いを切々と語って、生徒を泣かせる教員がいるという話も最近聞いた。なるほど、そこまで作品に感情移入して読むのは確かに豊かな鑑賞体験に違いない。
 だが前者のような読みは、作品の外部に広がる「知識」の準備を教員に強要し、後者のような授業は、教員に役者じみた芝居っ気が必要となる。
 どちらもそれが有益な体験となる場合もあろう。だが筆者はそうした方向を選ばない。それは個人的な適性の問題でもあるが、一方で、そうしたやり方が「国語」の授業の目指す方向であるとは思えないからだ。
 前者のような授業は生徒に、詩そのものに対峙するのではなく詩の周辺情報を集めることが詩を「正しく」読むことだという誤解を、後者のような読みは、結局、詩を「気分」で読むことが正しいのだという誤解を、それぞれ蔓延させる。
 そう、最近も上記とはまた別のベテラン教員から「詩は分析するものではない」とか、はたまた別の教員からも「詩の解釈は人それぞれで良い」というようなお決まりの見解が語られるのを聞いて、激しい脱力感と憤りを感じた。
 それは、あるレベルではそうであろう。分析を目的として詩を読む必要はないし、詩の解釈が限定的であることは散文ほどには保証されていない。
 だがまずは国語科授業である。ここは詩の鑑賞をするより、言語的訓練をする場である。それに鑑賞は、まっとうなテキスト解釈が保証されて、その上でやればいいし、その上でやるしかないはずだ。
 そのテキストを、まずはまっとうな作法で解釈すること。そこには広く「常識」としての「知識」だけを携えて、あとは徒手空拳で臨むしかない。その「常識」だけは生徒に保証すべきである。だが、普通の人が知るはずのない、例えば作者に特有の事情などをそこに持ち込む必要はない。それを事前に手にしていることがかろうじて授業を成立させるしかないような国語の授業など、もはや「国語」の授業ではない。

 たとえば「弟に速達で」の読解にあたって、辻征夫についての予備知識は、まったく用いていない。そもそもまるでない。
 だが我々があるテキストにふれるときには、基本的には手持ちの知識でその文字列に対峙するしかないのだ。
 どれほど誠実にテキストに対峙するか。授業ではそうした姿勢でテキストに向き合ったときにひろがる世界を生徒ともに体験したい。

 その時、詩を読むことは数独を解くことに似てくる。
 詩の言葉は散文に比べてテキスト自体の情報量は少ない。だがそこには、表に表れている情報を整合的に含み込むことの出来る認識の構造があるはずだ。書かれている数字から、純粋に論理的な推論を用いて空白の枡に入る数字を見つけ出すように、現前する詩のテキストから、それが組み込まれているはずの構造を推測しつつ、書かれていない言葉を補完するのだ。
 むろん数独そのもののような唯一解にはたどりつかないだろう。語り手が30才まで何をしていたかも、語り手を北に向かわせる「小さな夢」が何なのかも、確定できるほどの情報量は提示されていない。数独としては解が複数になってしまう、不完全な問題である。そういう意味で詩が解釈の自由度の高いテキストであるのは確かだ。
 だが、解くという努力を放棄して安易に「自由な解釈」や「情緒的な鑑賞」に陥るのは、間違いなく詩に対する不誠実である。

 それでも、詩というテキストを読解する行為は不思議だ。一見「不誠実」とは思われない語り口の次のような読解が、しかし筆者の読解とはまるで違った「構造」を背後に想定してしまうのだ。
 このブログ主は第一聯を次のように語る。
「おばあちゃん」にあまり会っていない弟なのだ。「おばあちゃん」から離れて、弟は遠方に住むのだろうか。その距離や時間的な空白の中には、淋しさや郷愁などが、薄い靄のように流れているのかも知れない。と同時に、疎遠な印象が、どっしりと弟の前に隔てとなって聳えているかのようである。
まるで違う印象を抱いている筆者には、こうした印象が詩のテキストから生成されることがどうにも不思議に思える。
 弟が「疎遠」であれば「最近会ったか?」とは聞かない、と思う。確かに「あまり会っていない」のかもしれない。だがそれはとりたてて「疎遠」というほどのことはない、通常の成人の親子関係の範囲であろうと感ずる。生まれた孫についての会話を電話でしていて、その後、直接会ったかどうかが、語り手には確認できていないだけなのだ。「あったか?」という問いかけはむしろ、会っていてもおかしくはないことが前提されているように思われる。
 さらに次のように言われると、戸惑いはいっそう激しい。
「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」と呼ばれるのは、どんな時だったろうか。「ノブコちゃん」が子供だった頃のことを良く知っている人たちが、多分そう呼び慣わしているのではなかったか。遙かな昔の時間が、すぐ目の前に迫るかのような呼び名なのである。つまり「ノブコちゃん」という呼び名は、遙かな昔を現前させることで、現実の距離や空白の時間をすっかり埋めてしまい、重層性を現前させる力をそもそも持っている、と言って良い。
筆者には、ここに「『ノブコちゃん』が子供だった頃のことを良く知っている人たち」が想起される理由がまったくわからない。単に母親を「ノブコちゃん」と呼ぶ、兄弟と母親の「今どきの」関係性が感じ取れるだけだ。
 母親を「ちゃん」づけする成人した息子たちは、30才まで定職に就かずに母親を心配させた息子たちである。そしてまたその母親はそういう息子を育てた母親である。いわゆる戦後の新しい家族的なスタイルとして、母親を「ちゃん」づけで呼ぶ習慣のある息子たちと、友人のような母親の関係を、ここは想像すべきではないのか。
 こうした解釈もまた「詩の解釈は自由だ」というお題目で許容されるのだろうか。
 かりにそうだとしても、それを許容することよりも、その妥当性について議論することの方が有益な「国語」の授業たりうることは間違いない。

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