2016年10月10日月曜日

恩田陸「オデュッセイア」の授業 1 -年表づくり

 明治書院「高等学校 現代文B」には、第1回と第2回の「本屋大賞」受賞者の作品が収録されている。野心的な試みだ。第1回受賞者の小川洋子は、受賞作品「博士の愛した数式」が一部抄録され、第2回受賞者の恩田陸は、受賞作品「夜のピクニック」ではなく、独立した短編「オデュッセイア」が採録されている。そしてこの二つの作品は、単に小説としてだけでなく、教材としてなかなかに魅力的なのだった。
 これらの小説を使った授業について提案する。

 「オデュッセイア」を収録している短編集『図書室の海』の中には、恩田陸の他の長編につながる短編なども収録されているのだが、「オデュッセイア」はひとまず独立した短編として完結しているようだ。一方、三省堂の『明解 現代文B』に収録されている「ピクニックの準備」は上記の「夜のピクニック」の前日譚で、たぶんこれだけを読んでもそれほど面白いとは思えない。編集部の冒険は認めるが、残念ながら判断が甘いとしか思えない。
 その意味で独立した作品である「オデュッセイア」はとりあえず予備知識なしに教室で読むことの出来る短編である。
 そして面白い。実はこの教科書を採択したのは、この魅力的な作品が収録されているということが最大の要因かもしれない。そのときは一応は評論のラインナップなどを見て選んだような気もするのだが。

 物語冒頭から「ココロコが、自分が動けることに気づいたのはずいぶん昔のことである。」と主語に立てられる「ココロコ」とは、住民を乗せて移動する一種の城塞都市である。山の岩盤を削って築かれた街とそこに住む人々ごと、山が移動しているのである(あるブログで、ココロコを「ロボット」と断言しているのを見てびっくりした。「不思議の海のナディア」で、海に浮かぶ島がまるごと宇宙船だったという「レッドノア」の設定あたりと混同しているんだろうか。そういう解釈を完全に否定できるとは言わないが、逆に明らかにそうであるように読者に解釈させようとしているフシは認められないから、これは素直に「山」と読むべきだと思われる)。
 「オデュッセイア」は、教科書には珍しい、イメージ豊かなファンタジーとして、高校生に読書の楽しみを味わわせることのできる良質な小説教材である。「ココロコ」本体のイメージはジブリのアニメ「ハウルの動く城」や「天空の城ラビュタ」を連想させるし、その旅の景色は「風の谷のナウシカ」や、宮崎駿の絵物語「シュナの旅」で見た風景を思い出させる。ただ読むだけでも愉しい。
 だから正直に言えば、教科書の採択の時点では、単にこの小説を生徒に読ませたいとしか思っていなかった。
 だがそうは言っても教材とは単なる鑑賞の対象ではなく、本来それを使って国語の授業を展開することができることが第一義である。授業で「使う」とは、それを解説して生徒に理解させることが目的ではない。そんなことをするよりはただ読んだ方がいいし、「オデュッセイア」はもともと解説が必要な小説ではない。だがそれでもあえて教材としての「オデュッセイア」を使って授業を展開するとすれば、どんな授業が可能か。

 一読後の導入としては、次のように展開する。
Q ココロコの年代記を世界史の年表風にまとめる。なるべく時間軸に沿って、ある程度文章として完結するように、ココロコに起こった出来事を述べよ。
筆者の授業では、生徒に教科書を閉じるように指示して、これから、黒板全体に物語の始まりから終わりまでを年表のように書き出していく、と宣言する。次々と生徒を指名し、物語の展開、出来事を挙げさせる。
 なるべく時間軸に沿って、とは言うが同時に、言えることを言うように、と指示する。生徒が「わかりません」と言わないようにである。黒板に書き出す段階で、時間軸を生徒に思い出させながら、展開の順序を整理する。また、ある程度文章として完結するように、とは言うが、内容的には何でも思いつく事柄でいい、とも言っておく。そうはいっても、展開や出来事の大小、軽重、根幹と枝葉、骨組みと肉付け、また出来事の因果関係について考えるよう促す。投げ出すように提示された一文も、言い放しにならないよう、応答をして、前後の関係を明らかにする。
 これはつまり通常「要約」と呼ばれる作業である。個人作業でこの作業を課すこともできるが、授業では上記のように教室全体で取り組みたい。作業にかかる時間が生徒間でばらつくのを揃え、「要約」の網の目の細かさを揃える。ページをめくりながらの個人作業では、小説の文言をそのまま書き出してしまう生徒が多くなるが、教科書を閉じさせるこの展開では、物語の骨格の把握のためのフィルターが自然にはたらく。そして生徒は、物語の全体像を視覚的に一望できる。また、他人との共同作業は有益な言語活動であるという以前にそもそも楽しい。
 この展開はどんな小説教材でも実施できる。評論教材でもできる。ただ、「オデュッセイア」はそもそも「遍歴」という題名が意味する通り、年代記的な骨格をもった小説だから、年表という形式になじみやすいとは言える。

 この「年表づくり」の際、物語終盤の展開はどのように語られるか。これが次の授業展開の糸口である。
 「年表づくり」を一時限行っても、物語の終盤については充分に完成しない。これは時間的な問題でもあるが、この小説に特徴的な語り口のせいでもある。
 物語終盤の展開はこうだ。ココロコのいる世界では核戦争が勃発し、人類が地上から消失する。だが人類は滅亡したわけではなく、いったん宇宙空間に逃れて、そこからこの星を探査するために再び放射能に汚染された地上を訪れる。そしてココロコの眠りを覚まして、一緒に宇宙へ飛び立つところで物語は終わる。
 まずはこの「戦争勃発」のくだりについて問う。
Q 物語終盤の展開について、どういう状況になっているのかを説明せよ。
教科書を開かせ、本文をたどりながら、具体的な記述が何を示しているかを説明させる。ここでの肝は、説明の際に、「戦争」「核兵器」「核爆弾」「ミサイル」「戦闘機」「キノコ雲」「放射能汚染」などの語彙が挙がるまで問答を繰り返すことである。
 実は本文中にはこれらの言葉は登場しない。「年表づくり」の段階でこれらの言葉を語る生徒はいるかもしれない。だがそこでは、応答を繰り返して、なるべく本文中にあった言葉をそのまま使って表現させる。
 そのうえで、そこに暗示されている事態がどのようなものであるかについて、上記のような語彙を使った表現に翻訳させる。物語の抽象化を行うのである。問答してみると「津波」「酸性雨」などという、微妙な勘違いが提出されたりもする。「空を何か大きなものが激しく飛び交った」などという記述が「ミサイル」のことか「戦闘機」のことかは解釈の分かれるところだが、もちろん併記のままでよい。
 この問答の後、次のような問いを投げかけてみる。
Q なぜ小説ではこれらの語彙が使われていないか。
このような翻訳が必要となるような「語り」の落差は何を意味しているかについての考察である。
 「オデュッセイア」の「語り」は、形式上は三人称ではあるが、実質的には意識を持った都市であるココロコの視線に近いところから描かれる一人称に近い。ココロコの意識はゆったりとしたスケールで長い時間、広い世界を捉えつつ、あくまで自らの見聞きできる範囲のものを素朴な語彙で語る。
 だがそれだけで完全に小説の「語り」が統一されているとも言い難い。科学技術が発達してきたと思われる時代に唐突に出現する「ケーブル」「アンテナ」といった語彙は、それまでの牧歌的な世界観には不整合な手触りをもっていて、読み手をギョッとさせる。これはココロコの語彙ではない(これも、人間が話している言葉を聞き取ったココロコが、その意味を正確に理解しないまま語っているという解釈ができないわけではないが)。
 つまり「オデュッセイア」の「語り」は、ココロコの意識から見た一人称的語りの層と、小説を統覚する作者の視点から見た層とが重なっているのである。このような語りの二重性は、別段「オデュッセイア」に特有のものではなく、多くの小説が程度の問題でそういうものなのである。たとえば漱石の「こころ」でも、遺書という体裁で厳密に視点が一人称に限定されているように見えながら、詳細に読んでみると通常は遺書の書き手が書くはずのない表現や描写が存在し、それは小説作者が三人称的な小説の「語り」を意識的・無意識的に重ねているのである。
 生徒にはここまでの考察を求めているわけではなく、上記の問いには「ココロコの目線で書いているから」くらいの答えが返ってくれば良い。こうした解答は期待してもよい。
 そのような二重性をもった語りの構造において、終盤の核戦争勃発以降の展開は、小説の作者が使ってもよさそうな、我々が通常SF小説などでなじんでいる表現をあえて抑えて、ココロコの意識に寄り添った形で語りを進めようとしているのである。同時に、その「小説」的な把握は当然のように、読者に期待されてもいる。むしろ、上記のような「核戦争」「放射能汚染」「異星への移住」などという物語は、SF的物語としてはきわめてありふれているといっていい。それは小説を享受する前提として共有されるべき「常識」「基礎教養」なのだ。だからこそ、それをそうした語彙で語ることが授業においては必要なのである。

 上記、戦争勃発のくだりの後に続くココロコの彷徨と眠りに続く、目覚めの場面から後の展開については、同じように、小説中の語彙にとどまらない言葉で「説明」させる。人類とこの星の現状と、「少年」「少女」の目的などについて確認する。必要に応じて小さな問いを発する。

  • 「『船』とは何か」→宇宙船。小さな探査船のようなもの?
  • 「ココロコはなぜ目覚めたか」→探査船の着陸?(少年と少女の気配とか足音とかいった解答がまず出てくる)
  • 「人類はどこにいるか」→異星? 宇宙ステーション? 巨大な母船?
  • 「少年と少女は兄弟?」→祖先が違うのだから、少なくとも兄弟ではない。
  • 「ココロコは何年くらい眠っていたか」→「言い伝え」が失われるほどの長い間ではなく、実在が一部では「伝説」と思われるくらいには時間の経過があるところから、百数十年程度?

 あくまでテキストから得られる情報をもとに、妥当な解釈がどのようなものかを確認する。

 さて、ストーリーの骨格を把握し、「常識」に基づいて物語を把握し、その先に何ができるか。登場人物の「気持ち」を考える、という授業の作法に従って、ココロコの「気持ち」を考えるなどというのは、どうみても馬鹿げている。
 では何をするか。筆者は次の問いを生徒に提示する。
Q ココロコは何の象徴か?

  以下次号 「ファンタジーと寓話」

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