承前「年表づくり」
授業で「オデュッセイア」を採り上げようと思った際、ただ読むだけ、の先にやれそうなことがあるとしたら、結局のところ、「ココロコ」って何だ? という疑問に答えることができるかどうかだけが問題なのだと考えていた。しばらく考えて、自分なりに、いけそうだという感触が得られたので、そのつもりで授業に臨んだ。それが次の問いである。
まず「象徴」という言葉についてのいささかの練習が必要である。「象徴」という言葉自体が生徒に馴染みのない状態ならば、問いだけを投げ出しても無意味である。むろん「象徴」という言葉を見聞きしたことのある生徒は多いだろうが、たとえば「象徴」と「比喩」の違いを明瞭に認識できる生徒は少ない。
言葉は、使えないまでも、見聞きしたことはあるというレベルで「知っている」場合がある。「ハトは平和の象徴」とか「天皇は日本国の象徴」といった表現については「知っている」ことを期待して、ここから「象徴」という言葉について確認をする。複数の例を挙げるところがミソである。共通性を考えさせることができるからだ。
いくらかの問答を経て、筆者が生徒に説明するのは、「象徴するもの」=「ハト」「天皇」がいずれも具体物(目に見える、触れるもの)であり、「象徴されるもの」=「平和」「日本国」が抽象概念(直接見えない、触れないもの)であるということである。見えない、形のないものをイメージする時に、実体のあるものを、人々が共有できるイメージモデルとして置くことが「象徴」なのだと言っておく。「象徴」としての「ハト」「天皇」は具体物としてのそれを意味するのではなく、「平和」「日本国」を意味するのである(それに対して「比喩」は、喩えるものと喩えられるものを共通性によって結びつける。両者は多くの場合どちらも具体物である。授業で「比喩」をとりあげる時には、その共通性が何かを考えさせる)。
ココロコが何かの「象徴」だということは、ココロコという実体・具体物が、どんな抽象概念の代わりになっているか、というのがここで考えるべき問題なのだ、と確認する。
さて、これがどうして「オデュッセイア」において問題となるのか?
「ハト」はある時には単なる生物、単なる鳥類の一種としての鳩でしかない。それがあるときには「平和」を象徴していると感じられる。それは文脈をどう読むかに拠っている。
ココロコを動く城塞都市としてのみ読むのなら、「オデュッセイア」はファンタジーである。
ファンタジーとは「作品内に魔法などの空想的な要素が(現実的にはありえなくとも)内部的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されて」いる、「架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持」つフィクションである(Wikipediaの「ファンタジー」の項より)。
ココロコは、少なくとも我々のいる現実から見れば「空想的な要素」である。だが、それを認めたうえでココロコのありようが「一貫性を持った設定」となっているなら、その設定を受け入れて「オデュッセイア」をファンタジーとして読めば良い。
確かに「オデュッセイア」をファンタジーだと表現することに、一般的な意味で不都合はない(筆者も記事の最初でそう表現している)。
だが、物語の結末は、どうみてもそのようには読めない。そこまでの動いたり泳いだりする展開には、もっともらしい描写によってリアリティが与えられている。ココロコの底部にはうろこのような突起が「足」のような役割を果たしていると書かれているし、水に浮かぶためには、内部に空洞があるのだと考えればいい。
それらを認めたとしても、空を飛ぶことをどのように納得すれば良いのか。宙に浮かぶくらいならともかく、宇宙へ飛び立つのである(そういえば「天空の城ラピュタ」では、その原動力を「飛行石」という「架空の設定」で説明していた。したがって「ラピュタ」は右のような意味でのファンタジーである)。
あるいは先のブログ主のように「ココロコはロボットだ」というような解釈をしてしまうのも、そうした納得の方途を求めてのことなのだろう。そうなると、もはや「ファンタジー」というよりは「SF(サイエンス・フィクション)」である。
だがこの物語に、これをSFとして読ませようというサインは認められない。一方でこの結末はファンタジーとしては破綻してしまう。
このような飛躍を納得するためには、「オデュッセイア」を何らかの象徴として読む必要がある。
そのために、結末近くを丹念に読んでみよう。
右に挙げた「宙に浮かぶ」ことをまず不自然だと指摘する者もいる。「地上を動く」「泳ぐ」に比べて「飛ぶ」の飛躍は大きすぎる。
あるいは、ココロコに乗った少女は剥き出しのまま宇宙空間に連れて行かれていいのか。ココロコの気密性は確保されているのか。どうして宇宙空間で「旗」が「風にはためく」のか。
また、少女はなぜココロコが飛べることを知っていたのか。「みんながココロコを待っている」という確信はどこからきているのか。
授業としては、なるべく多くの「サイン」を見つけ出すことを勧奨する。
これらは今までのファンタジーとしての「オデュッセイア」を破綻させる飛躍である。つまり結末において、そこまでの世界観、リアリティの水準、作品の論理を逸脱したレベルで、展開がいきなり不自然になるのである。そこに合理的な説明をしようとする気配もない。
となると、これは上記のような狭義のファンタジーではない。寓話であり神話である。ココロコに話しかける少女の声は、もはや肉声とは思えない。肉体を持った者の声ではなく、それは託宣のように響いている。
このとき、読者はココロコを単なる動く城塞都市としてではなく、何らかの象徴として読むよう促されるのである。それは何を象徴しているか。
生徒からはそれ以外の点についての指摘が挙がるかもしれない。そのうち、授業者による誘導によってでも指摘させたいのは、最後の1行「私たちはまだ旅の途中なのだ。」である。「オデュッセイア」は、ここまで三人称の相貌を読者に見せていたはずだ。なのにここにいきなり登場する一人称の「私」とは誰か。複数形で示される「私たち」とは誰か。
人称の変更は異常事態である。限られた特殊な効果を狙った場合にしか用いられない、アクロバティックな技法である。
この、「どうみても意味ありげな、不自然な記述」は、この物語がなんらかの象徴的な物語であることを読者に訴えているのである。
この物語が、一人の人間の一生を象徴した物語だと解釈する生徒がいる。ココロコが動き始めたのは、赤ん坊が四つん這いを始めたことに対応しているし、ココロコの眠りは死を意味している。最後に宇宙に飛び立つのは昇天である。つまりココロコは一人の人間である。
もちろん正解のない問いだから、何であれ提出されたアイデアを検討すること自体が学習である。「ココロコ」=「人間」というアイデアは、どんな解釈を可能にするか?
これについては、ココロコの形成の過程と人間の誕生との対応や、昇天の際の少女の役割、死から昇天に間があることなど、さまざまな疑問を生じさせることに対して、実りある読解を導けそうにないというのが筆者の印象である。
アイデアは結論ではない。どだい正解などないのだ。ココロコが何事かの象徴であると見なした時に、どのような読解が可能なのかが問題なのである。
生徒が考察するための手掛かりを提供する。「羅生門」における下人の頬にある「にきび」である。これもまた小説中にあっては単なる生理現象ではない。小説はそもそも現実ではないのだから、そこに書き込まれたものには何らかの小説的な意味がある。芥川は「にきび」を意図的に書き込んでいる。それは単なる描写のための視覚的道具立てのひとつではない。それを「良心」の象徴とするか「未熟さ」の象徴とするかは解釈によるが、少なくとも「にきび」を単なる生理現象ではないものとして捉えることが「羅生門」を読む手掛かりになる。同様の手掛かりは「オデュッセイア」では何か。
生徒にアイデアを募ればいろいろ挙がる。最終的には教師から挙げてしまってもいい。筆者の挙げるのは「星見やぐら」「旅行日誌」「長老」、そして「手紙」「旗」である。これらは「にきび」のように小説中で繰り返し言及され、単なる物語中の実在というだけでない、ある象徴性を読み取ることを要求しているように感じられる。それはむろんココロコをどのような象徴であると読むかという物語全体の把握の構成要素でもある。
ココロコを「人間」であるとみなし、その年代記が「人の一生」を象徴していると考えるアイデアは、右の「手掛かり」をどのように生かした読解を可能にするか。それについて筆者にはあまり明るい見通しはない。
では指導書にある「ココロコ」=「都市」ではどうか。そもそも作者、恩田陸自身がこの物語について「都市の年代記を書きたい」と言っているのである。もちろんココロコは「都市」である。だがそれではそのまま、この物語における実在を言い表しているに過ぎず、そこにある象徴性は希薄である。読解のひろがりを生まない。「手掛かり」も、象徴と言うより実在としての意味合いで捉えられてしまう。
では同様に指導書が唱える「人々の願望」はどうか。このような措定において「手掛かり」がどのように捉えられるのかを考えるのは筆者の任ではない。
以下次号 「ココロコは何の象徴か」
授業で「オデュッセイア」を採り上げようと思った際、ただ読むだけ、の先にやれそうなことがあるとしたら、結局のところ、「ココロコ」って何だ? という疑問に答えることができるかどうかだけが問題なのだと考えていた。しばらく考えて、自分なりに、いけそうだという感触が得られたので、そのつもりで授業に臨んだ。それが次の問いである。
Q ココロコは何の象徴か?同様の問いは教科書の「研究」でも示されているが、問題は、それをどのように授業で展開するか、である。
まず「象徴」という言葉についてのいささかの練習が必要である。「象徴」という言葉自体が生徒に馴染みのない状態ならば、問いだけを投げ出しても無意味である。むろん「象徴」という言葉を見聞きしたことのある生徒は多いだろうが、たとえば「象徴」と「比喩」の違いを明瞭に認識できる生徒は少ない。
言葉は、使えないまでも、見聞きしたことはあるというレベルで「知っている」場合がある。「ハトは平和の象徴」とか「天皇は日本国の象徴」といった表現については「知っている」ことを期待して、ここから「象徴」という言葉について確認をする。複数の例を挙げるところがミソである。共通性を考えさせることができるからだ。
いくらかの問答を経て、筆者が生徒に説明するのは、「象徴するもの」=「ハト」「天皇」がいずれも具体物(目に見える、触れるもの)であり、「象徴されるもの」=「平和」「日本国」が抽象概念(直接見えない、触れないもの)であるということである。見えない、形のないものをイメージする時に、実体のあるものを、人々が共有できるイメージモデルとして置くことが「象徴」なのだと言っておく。「象徴」としての「ハト」「天皇」は具体物としてのそれを意味するのではなく、「平和」「日本国」を意味するのである(それに対して「比喩」は、喩えるものと喩えられるものを共通性によって結びつける。両者は多くの場合どちらも具体物である。授業で「比喩」をとりあげる時には、その共通性が何かを考えさせる)。
ココロコが何かの「象徴」だということは、ココロコという実体・具体物が、どんな抽象概念の代わりになっているか、というのがここで考えるべき問題なのだ、と確認する。
さて、これがどうして「オデュッセイア」において問題となるのか?
「ハト」はある時には単なる生物、単なる鳥類の一種としての鳩でしかない。それがあるときには「平和」を象徴していると感じられる。それは文脈をどう読むかに拠っている。
ココロコを動く城塞都市としてのみ読むのなら、「オデュッセイア」はファンタジーである。
ファンタジーとは「作品内に魔法などの空想的な要素が(現実的にはありえなくとも)内部的には矛盾なく一貫性を持った設定として導入されて」いる、「架空の設定に一貫性と堅牢な構造を持」つフィクションである(Wikipediaの「ファンタジー」の項より)。
ココロコは、少なくとも我々のいる現実から見れば「空想的な要素」である。だが、それを認めたうえでココロコのありようが「一貫性を持った設定」となっているなら、その設定を受け入れて「オデュッセイア」をファンタジーとして読めば良い。
確かに「オデュッセイア」をファンタジーだと表現することに、一般的な意味で不都合はない(筆者も記事の最初でそう表現している)。
だが、物語の結末は、どうみてもそのようには読めない。そこまでの動いたり泳いだりする展開には、もっともらしい描写によってリアリティが与えられている。ココロコの底部にはうろこのような突起が「足」のような役割を果たしていると書かれているし、水に浮かぶためには、内部に空洞があるのだと考えればいい。
それらを認めたとしても、空を飛ぶことをどのように納得すれば良いのか。宙に浮かぶくらいならともかく、宇宙へ飛び立つのである(そういえば「天空の城ラピュタ」では、その原動力を「飛行石」という「架空の設定」で説明していた。したがって「ラピュタ」は右のような意味でのファンタジーである)。
あるいは先のブログ主のように「ココロコはロボットだ」というような解釈をしてしまうのも、そうした納得の方途を求めてのことなのだろう。そうなると、もはや「ファンタジー」というよりは「SF(サイエンス・フィクション)」である。
だがこの物語に、これをSFとして読ませようというサインは認められない。一方でこの結末はファンタジーとしては破綻してしまう。
このような飛躍を納得するためには、「オデュッセイア」を何らかの象徴として読む必要がある。
そのために、結末近くを丹念に読んでみよう。
Q 最後の1ページに、不自然な点、疑問点はないか。生徒には、最後の方には「突っ込みどころ」がいくつもある、突っ込んでごらん、と言う。
右に挙げた「宙に浮かぶ」ことをまず不自然だと指摘する者もいる。「地上を動く」「泳ぐ」に比べて「飛ぶ」の飛躍は大きすぎる。
あるいは、ココロコに乗った少女は剥き出しのまま宇宙空間に連れて行かれていいのか。ココロコの気密性は確保されているのか。どうして宇宙空間で「旗」が「風にはためく」のか。
また、少女はなぜココロコが飛べることを知っていたのか。「みんながココロコを待っている」という確信はどこからきているのか。
授業としては、なるべく多くの「サイン」を見つけ出すことを勧奨する。
これらは今までのファンタジーとしての「オデュッセイア」を破綻させる飛躍である。つまり結末において、そこまでの世界観、リアリティの水準、作品の論理を逸脱したレベルで、展開がいきなり不自然になるのである。そこに合理的な説明をしようとする気配もない。
となると、これは上記のような狭義のファンタジーではない。寓話であり神話である。ココロコに話しかける少女の声は、もはや肉声とは思えない。肉体を持った者の声ではなく、それは託宣のように響いている。
このとき、読者はココロコを単なる動く城塞都市としてではなく、何らかの象徴として読むよう促されるのである。それは何を象徴しているか。
生徒からはそれ以外の点についての指摘が挙がるかもしれない。そのうち、授業者による誘導によってでも指摘させたいのは、最後の1行「私たちはまだ旅の途中なのだ。」である。「オデュッセイア」は、ここまで三人称の相貌を読者に見せていたはずだ。なのにここにいきなり登場する一人称の「私」とは誰か。複数形で示される「私たち」とは誰か。
人称の変更は異常事態である。限られた特殊な効果を狙った場合にしか用いられない、アクロバティックな技法である。
この、「どうみても意味ありげな、不自然な記述」は、この物語がなんらかの象徴的な物語であることを読者に訴えているのである。
この物語が、一人の人間の一生を象徴した物語だと解釈する生徒がいる。ココロコが動き始めたのは、赤ん坊が四つん這いを始めたことに対応しているし、ココロコの眠りは死を意味している。最後に宇宙に飛び立つのは昇天である。つまりココロコは一人の人間である。
もちろん正解のない問いだから、何であれ提出されたアイデアを検討すること自体が学習である。「ココロコ」=「人間」というアイデアは、どんな解釈を可能にするか?
これについては、ココロコの形成の過程と人間の誕生との対応や、昇天の際の少女の役割、死から昇天に間があることなど、さまざまな疑問を生じさせることに対して、実りある読解を導けそうにないというのが筆者の印象である。
アイデアは結論ではない。どだい正解などないのだ。ココロコが何事かの象徴であると見なした時に、どのような読解が可能なのかが問題なのである。
生徒が考察するための手掛かりを提供する。「羅生門」における下人の頬にある「にきび」である。これもまた小説中にあっては単なる生理現象ではない。小説はそもそも現実ではないのだから、そこに書き込まれたものには何らかの小説的な意味がある。芥川は「にきび」を意図的に書き込んでいる。それは単なる描写のための視覚的道具立てのひとつではない。それを「良心」の象徴とするか「未熟さ」の象徴とするかは解釈によるが、少なくとも「にきび」を単なる生理現象ではないものとして捉えることが「羅生門」を読む手掛かりになる。同様の手掛かりは「オデュッセイア」では何か。
生徒にアイデアを募ればいろいろ挙がる。最終的には教師から挙げてしまってもいい。筆者の挙げるのは「星見やぐら」「旅行日誌」「長老」、そして「手紙」「旗」である。これらは「にきび」のように小説中で繰り返し言及され、単なる物語中の実在というだけでない、ある象徴性を読み取ることを要求しているように感じられる。それはむろんココロコをどのような象徴であると読むかという物語全体の把握の構成要素でもある。
ココロコを「人間」であるとみなし、その年代記が「人の一生」を象徴していると考えるアイデアは、右の「手掛かり」をどのように生かした読解を可能にするか。それについて筆者にはあまり明るい見通しはない。
では指導書にある「ココロコ」=「都市」ではどうか。そもそも作者、恩田陸自身がこの物語について「都市の年代記を書きたい」と言っているのである。もちろんココロコは「都市」である。だがそれではそのまま、この物語における実在を言い表しているに過ぎず、そこにある象徴性は希薄である。読解のひろがりを生まない。「手掛かり」も、象徴と言うより実在としての意味合いで捉えられてしまう。
では同様に指導書が唱える「人々の願望」はどうか。このような措定において「手掛かり」がどのように捉えられるのかを考えるのは筆者の任ではない。
以下次号 「ココロコは何の象徴か」
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