2016年10月9日日曜日

辻征夫「弟に速達で」の授業3-夢見る一族

Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。
承前

 誘導のため、さらに考える糸口を与える。
Q 「おれ」は三十才まで何をしていたか。
「正解」はない、と言っておく。自由に想像していい。
 自由に、とはいえ、文脈に齟齬をきたさない範囲であることが条件である。「定職」には就かず母親に「しんぱいばかりかけた」というのだが、これを今風に「ひきこもり」だったのだと考えるのは不適切だ。短期労働か、今風に言えばフリーターででもあったものかはともかく、はずしてはならない条件として、少なくとも何かしら「夢」を追っていたのだと考えるべきであろう。そう考えてはじめて、三聯がこの詩におかれていることの意味がわかるからである。
 生徒には具体的にイメージさせる。

  • ミュージシャンになりたくてバンド活動していた。
  • 俳優になりたくて劇団に所属していた。
  • 起業家を目指して会社設立を企画していた。
  • NGO組織でボランティア活動をしていた。
  • 小説家を目指して投稿を繰り返していた…。

 これは一人「おれ」だけではなく、弟もそうなのである。そのことが「ノブコちゃん」に「しんぱいばかりかけた」ことを語り手は自覚している。だからこそ定職について給料で買った贈り物に母親が喜んだことを印象深く覚えているのである。

 次の考察に進む前に、時間をとってゆっくり展開するつもりならば、次の問いを投げておいてもいい。
Q 「おれ」は北に何をしに行くのか。
詩の論理に齟齬のない範囲内でなら自由に考えていい、と言い添える。

  • 流氷の軋むオホーツク海を見る。
  • 見渡すばかりのラベンダー畑に佇む。
  • 大雪山頂から石狩川を見下ろす。
  • オーロラの空の下に立つ。
  • 脱サラして北海道で牧場を営む。

 むろん「何をしに行くか」に率直に答えるのなら詩の中に「はるかな山と/平原と/おれがずっとたもちつづけた/小さな夢を/見てくる」と書いてある。だからこの問いは「小さな夢を見る」という表現がどのような想像を許容するかをはかる思考を促しているのである。
 さまざまな想像が教室内に提出され、そのイメージの広がりと重なりのなかで「はるか」という名に込めた願いが、いくらかなりと実感されるのは悪くない。どこまでの想像なら詩の論理に齟齬をきたさないか、という検討はむろん有益である。この北への旅が、一時的な旅行なのか、北への永住の決意なのかは見解の分かれるところかもしれない。
 ともかくもこれらが筆者の言うところの「小さな夢」であり、それは、三十才で定職に就くときに一旦は密かにしまっておいたものだということを確認しておく。この四聯を踏まえて、三聯の「三十才」までの過ごし方が想像されるべきなのだ。そしてそれを再び追うことを決意させたのは、母親の、孫への命名にこめられた願いである。

 さて、「夢を追う」というキーフレーズが提出されたことで、詩の論理を追う手掛かりができた。二聯と四聯の内容を「夢を追う」というフレーズを使って言い換えてみる。

二聯 祖母が孫に「はるか」という名を提案している
   →祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している/願っている。
四聯 伯父が、自分の夢を見るために北へ行くと宣言している
   →伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している/願っている。

 こうした言い方に沿って、三聯を言い換えるとどういうことになるか。

三聯 息子が定職に就いたことを母親が喜んだ。
   →息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。

 母親が孫に「はるか」という名を提案していることを聞いたとき語り手が「老眼鏡」を思い出すのは、息子が「はるか」な「夢」を見ることをやめた時に喜んでいた母親の姿を連想したからである。母親はかつて息子が定職に就いて「夢」を見ることをやめたとき、そのことを喜んだのだった。
 そう考えてみると、このプレゼントが老眼鏡であったことにも、いささか穿ち過ぎの解釈ができないこともない。老眼鏡とは遠くではなく目の前を見るための道具である。「夢」を追っていた二十代の終わりに定職に就くにあたって、「おれ」が贈ったのが、目の前を/現実を見るための道具としての老眼鏡であったことは何か象徴的だと言えなくもない。
 「なぜ思い出したか」はこのように言えるとはいえ、まだこの詩の中で三聯が果たしている役割については一貫した論理が見えていない。その点についてさらに考える。
Q 整合的な二聯と四聯にはさまれた三聯の不整合をどう考えるか。
つまり、
 二聯 祖母が孫に「夢を追う」ことを期待している。願っている。
 三聯 息子が「夢を追うのを諦めた」ことを母親が喜んだ。
 四聯 伯父が姪にも「夢を追う」ことを期待している。願っている。
という流れを納得できるように追う論理を問うのである。

 さて、三聯をはさむ詩の論理展開についての最終的な生徒の意見を聴き、それらを検討しつつ、最終的には以下のような筆者の読みを語る。

 母はかつて息子が「夢を諦めた」ことを喜んだはずなのに、今は生まれたばかりの孫に「夢を追う」ことを願う。そして息子はそうした母親の願いを聞いて、自らももう一度「夢を追う」ことを決意し、あわせて姪にも、母親と同じ願いをかける。
 つまりこれは、懲りない一族の物語なのである。
 母は確かにかつて「夢」を追ってなかなか定職に就かない息子達を心配したが、考えてみれば息子をそのように育てたのはとうの母親自身である。彼女は息子達が「夢を追うのを諦め」て定職に就いた時に喜んだはずなのに、今また性懲りもなく孫にも「遠く」を見ろと願っている。
 それを知った「おれ」に生じた感慨はどのようなものか。
 つまり「おれ」は、母が「はるか」という名を考えたことを聞いて、かつての自分の生き方を、母親から肯定されていると感じ取っているのである。「おれ」は母親に「しんぱいばかりかけた」が、そんな生き方を、母親は否定してはいなかったのである。それを「おれ」は、「はるか」という命名案に感じ取る。夢を追っていた日々を、母親がどのような目で見ていたか、今あらためて感じているのである。
 「おれ」がこの命名に寄せる感慨はそのようなものだ。
 そして定職について母親を安心させはしたものの、「おれ」も相変わらず「小さな夢」を「ずっとたもちつづけ」て、今また北へ旅立とうとしている。そして母親と同じく、姪にも「夢」を見続けろとけしかけるのである。
 連綿と続く夢見る一族の性。
 これはそうした懲りない一族の詩なのである。

 結局、読み取った詩の主想は最初に読んだときとそれほど違いはないかもしれない。この詩は相変わらず「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」のある、何かしら好もしい詩である。
 そして一連の授業過程を経てあらためて感じ取られたこの親子に流れる血のつながりもまた、おなじように「ユーモラスな感じと、クールな格好良さ」という印象である。
 それでも、考察によって、詩を構成している論理が目に見える形で浮上してくる瞬間は、筆者にとって、ほとんどカタルシスといっていい、興味深い認識の転換であった。
 「弟に速達で」はそうした仕掛けが期待できるという意味で、きわめてすぐれた教材である。

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