2016年10月7日金曜日

辻征夫「弟に速達で」の授業1-「おばあちゃんとは」の謎

 平成26年度から高等学校で使用されている明治書院の「高等学校 現代文B」を、本校では昨年度から採択している。27年度の3年生が1年間だけ使って、その下の学年は2学年から使っている。今年はその学年が3年に進級して、こちらはもう一度3学年の授業を受け持ち、同じ教科書でもう一度授業をすることになった。
 そして今年の1年生が来年から2年間使って、それでこの教科書は改訂となる。
 昨年の授業で手応えを感じたいくつかの教材について、昨年度の終わり、3月から4月にかけて、まとめてみようと思い立った。昨年の今頃には、そんなつもりはなかったのだが。
 それは、教材の汎用性の乏しさにもよる。それらの教材は、この教科書の、この版にしか収録されない可能性の高い教材だろうと思われる。
 だが今年、もう一度授業をしてみて、まだ2年は使われる可能性のあるこの教科書の教材を使った授業について、やはり記録にとどめておこうという気になった。二つの学年で扱ってみて、やはりやるに値する教材であり、授業であると感じたからだ。
 以下、辻征夫「弟に速達で」、恩田陸「オデュッセイア」、小川洋子「博士の愛した数式」を取り上げた授業について、2年分の知見をもとにまとめてみる。
 最初は、昨年、「永訣の朝」をとっかかりに目覚めてしまった詩の授業である。


   弟に速達で
                                                            辻 征夫 

さいきん
おばあちゃんにはあったか?
おばあちゃんとは
ノブコちゃんのことで
ははおやだわれわれの

まごがうまれて
はるかという名を
かんがえたそうだなおばあちゃんは
雲や山が
遠くに見える
ひろーい感じ
とおばあちゃんは
いったのか電話で

おれはすぐに
すこしゆるゆるになったらしい
おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した
あれはおれが 三十才で
なんとか定職についたとき
五回めか六回めかの賃銀で買ったのだ
おれのはじめてのおくりもので
とてもよろこんでくれた
なにしろガキのころから
しんぱいばかりかけたからなおれやきみは

じゃ おれは今夜の列車で
北へ行く
はるかな山と
平原と
おれがずっとたもちつづけた
小さな夢を
見てくる
よしんばきみのむすめが
はるかという名にならぬにしろ
こころにはるかなものを いつも
抱きつづけるむすめに育てよ

北から
電話はかけない


 辻征夫「弟に速達で」を授業で取り上げて何ができるか。
 そもそも国語科の授業で、ある教材を読むことの意義は、ともかくも生徒がそれを読むという機会を作る、というだけで既に存在する。だから、韻文でも散文でも、詩でも小説でも評論でもコラムでも、読むだけでも意味はある。
 さらにそれ以上に授業に意義があるとすれば、一人で読むのとは違った何らかの認識の発展が生徒の裡に起こること以外にはない。「弟に速達で」を授業で取り扱うと、一人で読むのとは違った、どのような認識が、どのような過程を経て生徒の裡に生成されるのだろうか。

 授業で読み込むまで、個人的には、この詩に、とりわけてわからないところはない、と思っていた。そして何かしら好もしい印象を抱いた。
 全ての教材が、特別な解釈を必要としているわけではない。ただ読めば「わかる」文章もある。読者それぞれにその文章を受け止めればそれでいい、といったような。
 それでも、素直に感じた印象を言葉にしたり、その印象がどのような作用で成立したのかを分析したりすることも、国語科の授業としては有益である。微妙な感情を他人に向けて表現すること、その感情と言語の関係について考察すること…。
 だが「印象」はあくまで個人の内的なものであり、その分析は、その印象を抱いた人自身がするしかない。どんな感じ? と聞いて生徒自身にその印象を語らせ、どこからそんな感じがした? とその機制を分析させる。
 もちろんそれは容易なことではない。難しければ、例えば教師自身がそれをやってみせるだけでもいい。
 この詩には、ユーモラスな感じと、クールな格好良さがあると思う。そうした印象を感じさせる要因を思いつくまま挙げてみる。
 「ははおやだわれわれの」の、不自然に平仮名ばかりの表記や、一字空けにすらしない倒置法をぬけぬけと読者の前にさらすふてぶてしさ(同様の詩行が何カ所もある)。
 「ははおや」を「ちゃん」付けで呼びながら弟に「きみ」と呼びかけること。
 「ひろーい」「ガキ」「じゃ」といったくだけた口調。
 夢を見るために北へ向かうという子供っぽさと「電話はかけない」と言い切ってすっぱりと詩を断ち切る鮮やかさ。
 こうした、詩の「印象」と「分析」を語る行為は、有り体に言えばいわゆる「鑑賞」であり、それは本来、詩を書くことと同じくらい創造的なことだ。どうしようもなく、それを語る人自身が問われてしまう。恐ろしくて、そうおいそれと一高校教師にやれるものではない。我々は国語の授業を主催する者ではあるが、創作家ではない。
 そうではなく、何か語ることがあるとすればそれは作家の伝記的事項だったりするのだろうが、高校生に「辻征夫」がどんな詩人で、文学史的にどのように位置づけられるか、などと語ることにとりたてて意味があるとも思われない。あるいはこの詩がいつごろ、どのような状況で創られたものかを知ることは、いくらかはこの詩の理解に資するところがあるかもしれないが、そのようにしてこの詩を理解することはそもそもそれほど意味のあることでもない。右のような「鑑賞」も、なんら「教える」べき内容でありはしない。

 だから詩を読む。テキストから得られる情報を検討する。するとわかったつもりになっていた詩句にも新たな発見がある。教師自らが読み返しながら更新されていく「読み」を意識化して授業として展開する。読んでわかること以上の認識を生徒の裡に生成するために「問い」を仕掛ける。
 一読後、右の「印象」以外に最初に問うのは、ここに登場する人物の関係である。
Q 一聯から二聯の始めに登場する人物の関係を整理せよ。
これを理解させたいわけではない。読み取らせたいだけだ。
A 「ノブコ」の息子である「おれ(語り手)」と「弟」、「弟」の娘(はるか?) 
黒板には家族図(樹形図)の形で板書する。



 「一読」だと、この関係がすんなりわかる者とわからない者に分かれるから、話し合いをさせる。先にわかった者がわからない者に説明する。わかった者の自尊心を擽る。
 一読ではわからなかった者がいるとしても、ここまではすぐに「わかる」べきことである。「問い」によって、ここまでの理解を揃える。
 問題は次の問いである。
Q なぜ、一度「おばあちゃん」と言っておいて、それを「おばあちゃんとは/ノブコちゃんのことで」と言い直す必要があったのか。ここから何がわかるか。
読者側から言うと、詩の各行を順番に読む中で、「おばあちゃん」と呼ばれる老婦人が「ノブコちゃん」と「ちゃん」づけで呼ばれることに驚きつつニヤリとさせられ、続けてそれが自分たちの母親だと言われてさらに驚く。「おばあちゃん」が「ノブコちゃん」なのも意外だが、母親を「ノブコちゃん」と呼ぶのもはなはだ突飛だ。驚きとともに一瞬混乱はするものの、だが母親を「おばあちゃん」と呼ぶ習慣は、日本人にはさして特殊なものではないから、二聯で「まご」が出たとたんに、先述の人間関係が、たちまち把握される。つまりこの詩行は、それなりに「わかる」。
 そして「わかる」ことによって見過ごされてしまう。
 三行目「おばあちゃんとは」は、よく考えると奇妙である。「おばあちゃん」が誰のことを指しているかが相手にとって必ずしも明確ではなく、誰のことかを特定する必要がある、という場面は特殊である。聞き手が「どこの老婦人のことだ?」と思うような文脈で「おばあちゃんにはあったか?」などと聞いたりは普通しない。
 だが読者にとっては一行ずつが新情報であり、それを解釈していく中で、その不自然さに気づきにくい。「おばあちゃんとは」が、まるで読者に対する解説であるかのように受け取ってしまう。だがこの特定、言い換えは、我々読者のために必要だったわけではない。この詩句の読者とは、題名からして弟であるという設定だからである。
 とすれば、言い直しが必要な理由は、「おばあちゃん」と言えば誰を指すのかが、ある程度は明確であり、なおかつ一応は確認する必要もある、という微妙な場面であるということだ。それはどんな場合か。

 「祖母」と呼ばれる人は、通常は母方と父方の二人いるから、どちらの「おばあちゃん」かを特定する必要があるのだ、という意見が生徒から出る。
 だがこれは無理である。「はるか」にとっての「おばあちゃん」とは「ノブコちゃん」ともう一人、弟の奥さんの母親である。だが、語り手にとっては彼女は血のつながらない他人だから、それを「おばあちゃん」と呼ぶとは考えにくい。

 では「はるか」にとっての曾祖母が存命中ならばどうだろう。つまり「おれ」と「きみ」にとっての「おばあちゃん」と「はるか」にとっての「おばあちゃん」を区別する必要があったのだ、という解釈である。
 これは論理的には可能な解釈である。だがそのように考えるのは不適切である。書いていないことを「論理的にはありうる」こととして想定していくと解釈の可能性は果てしなく拡散してとりとめがなくなってしまう。読者が自然な解釈をするために必要な情報は、基本的には作品中に書かれているはずだと考えるべきなのである。書かれている情報を整合的に包括する解釈を考えるべきなのだ。

 では「おばあちゃんとは」という言い換えが必要な整合的で自然な解釈とは何か。
 この「問題」はいささか抽象的に過ぎて考えるためにはとりとめがないから、必要に応じて誘導も必要かも知れない。たとえば「そもそも自分の母親を『おばあちゃん』と呼ぶのはなぜ? どんな場合?」と、わかりきったことをあらためて聞く。そう、孫がいる場合である。とすると…。

 この言い直しが示しているのは、つまり「はるか」が「ノブコ」にとっての初孫なのだということである。
 今までこの兄弟の間では、母親を「ノブコちゃん」と呼んできた。だが孫が生まれると、日本人の家族間呼称の習慣に従って、「ノブコちゃん」は今後「おばあちゃん」と呼ばれるようになる。とりわけここでは、この後で「まご」が話題に上るから、その力学で「ノブコちゃん」は「おばあちゃん」として話題に登場する。
 だがその呼び名はまだこの兄弟には馴染みがなく、一応確認が必要に感じられているのである。
 そこから、語り手には子供がまだいないこと(既婚/未婚の別は不明だが)、「はるか」に兄姉はいないこともわかる。語り手と弟に他に兄弟がいるかどうかは不明だが、彼らにも恐らく子供はいないということになる。

 この詩は、初孫の誕生にあたって、名前を考える老婦人について、その息子が、もう一人の息子に書き送った手紙、という設定なのである。
 こうした読解は、一読後ただちに読者に了解されるわけではない。上記のような問いによってあらためて考えなければ、読者の裡に生成されはしないはずの読みである。

 さて、昨年の授業で思いついたのはここまでだった。
 だがその時から気になっていて、その後、考えているうちに自分なりに答えにたどり着いたと思えた点があって、今年はそこまで授業を展開できた。
 次のような疑問である。
Q なぜ語り手は「おばあちゃんの老眼鏡を 思い出した」のか。

 この項、続く。

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