2016年10月12日水曜日

恩田陸「オデュッセイア」の授業 3 -ココロコは何の象徴か

 承前「ファンタジーと寓話」


 「オデュッセイア」は、終盤近くまでは、字義通りの正統な狭義のファンタジーである。だがそれが終盤でにわかに寓話の様相を帯びてくる。その時に問題となるのが次の問いである。
Q ココロコは何の象徴か?
  「何」か、を聞いている以上、何らかの名詞もしくは名詞句で生徒は様々な「答」を提出する。いわく、歴史、時間、変化、人類、人間、欲望…。その妥当性を巡ってさまざまな思考が飛び交うのは意義あることだ。
 「正解」を求めているわけはないので、これらの単語のどこかに決着点があるわけではない。だがその根拠を聞いても、なかなか有益な議論が展開するわけでもない。それはなかなかに高度な授業展開だ。

 ココロコが象徴するものとして、筆者が最もバランス良く対応すると感ずるのは「文明」という概念である。
 これは、一般的に「文明」と訳されている「civilization」の原義が「都市化」を意味している以上、「ココロコ」=「都市」という、実在そのままの把握を延長したに過ぎないともいえる。また「人々の願望」が生んだものの集積こそ「文明」に他ならないともいえる。
 だが問題は部分的な対応ではない。物語全体にそうしたアイデアが適用できるか、である。
 筆者が「文明」という概念を想起したのは、ココロコが移動する存在であるという設定について考えているときである。ココロコの移動を「ココロコ」=「都市」という捉え方で説明することは難しい。都市の時間的変遷を空間的移動に置き換えて表現しているのだ、などといった言い方は一見もっともらしいが、それ以上のひろがりをもたないように思える。
 それよりも、ココロコの移動は、「文明」の伝播を意味していると考えればいいのではないか。それは時間的変遷でもあるが、そのまま空間的移動でもある。

 「ココロコ=文明」というアイデアは繰り返すが、決着点ではない。問題はそうしたアイデアの妥当性を検討する読解活動そのものである。「ココロコ=文明」というアイデアを念頭に、物語全体を見渡してみよう。
 ココロコの意識の目覚めは「文明」の発祥である。それは集落の都市化によって可能となる。そのことは本文から明瞭に見てとれる。
 そしてココロコが移動を開始するきっかけとなるのは、外敵の襲来である。「文明」の伝播は戦争と交易を推進力とする。「文明」は戦争によって急激に発展し、拡散するのが世界史の常だ。「文明」は伝播の過程で異民族との間に衝突を生むこともある。ココロコ住民は旅の途中で戦争を経験する。豊かな「文明」には略奪者も訪れる。
 またココロコは行く先々で歓迎を受けることもある。「文明の伝播」は、他文明の人々に富をもたらす。あるいは他文明の富を求めて旅する人々によって、「文明」が伝えられていく。交易が「文明」を伝播させるのである。
 「文明」はやがて海を越えて伝播する。新大陸ではまた、新たな人々の手で新たな方向性が与えられる。
 古い「文明」はやがて技術の発展によって「物質文明」、「科学文明」などとも呼ばれるようなものに変ずる。
 「文明」の発展はやがて大規模な戦争を引き起こす。「文明」の担い手である人類が滅びれば「文明」も眠りにつく。その痕跡が遺跡として残る場合もある。
 そして「文明」は、その担い手である人類の移動にともなって伝播する。人類が宇宙空間に飛び立つならば、「文明」もまたそこに伝えられていくのである。
 ココロコの移動が、陸上から海上へ、そして宇宙空間へ拡がるのも、物理現象としては質的な変化があるように感じられるが、象徴的な意味では、単に拡散していく人類とともに「文明」が伝播していくことを表していると考えればいい。

このようにココロコを「文明」を象徴するものと考えると、小説中のさまざまな展開や描写が人類の歴史に起こったことと符合することが見えてくる。
 「オデュッセイア」という物語が歴史に重なるものであることはその題名からも明らかである。最初の年代記づくりはそのまま、ココロコの歴史が人類の歴史であることを感じさせる。
 そして人類の歴史とはつまり「文明」の歴史である。記録された文明の痕跡を物語として一貫させたものが歴史である。「オデュッセイア」が人類の歴史に重なるということはココロコが「文明」を象徴しているということにほかならない。

 授業では以上のようなことを授業者が話しながら本文をたどる、という展開も可能だが、さらに詳細に展開するなら、たとえば筆者の授業では、生徒が実際に使用している「世界史」の教科書の「文明の発祥」の節の本文と「オデュッセイア」の本文を比較させて読み、そこにある対応関係を探した。
 あるいはたとえばWikipediaなどの百科事典を使うこともできる。マルクス主義の考古学者ゴードン・チャイルドは、文明と非文明の区別をする指標として次のものを挙げている(Wikipediaの「文明」の項より)。

  • a「効果的な食料生産」
  • b「大きな人口」
  • c「都市」
  • d「職業と階級の分化」
  • e「合理科学の発達」
  • f「支配的な芸術様式」
  • g「記念碑的公共建造物(ピラミッドなど)」
  • h「文字」

 これらは「オデュッセイア」においてどのように物語中に折り込まれているか。
 a~dは「オデュッセイア」冒頭で示されているココロコの成立や概要にその対応した描写を見出せる。後にココロコとして立ち上がる土地では、そこに住む人々が増え(b)、街ができ(c)、農業が行われる(a)。そこには「統率のとれた自治体」(d)ができる。
 また、たとえば次のような一節は、さりげない描写として読み流してしまうこともできるが、こうした展望に沿って意識的な読解をすると面白い。
 さまざまな人々がココロコに滞在した。王様にお姫様、商人に天文学者。天文学者と長老が星の運行についての意見を戦わせている脇で、きざな吟遊詩人が高貴な女性に恋の歌を歌っているのはすてきな眺めだった。
この一節について、次のように問う。
Q 右の一節に描かれる人物は「文明」の四つの重要な要素を象徴している。それぞれ二字熟語で挙げよ。
想定している解答は「政治」「経済」「科学」「芸術」である。
 確定的に解答を限定する問いではないから唯一の「正解」を前提にせずに、生徒に考察をうながす。補助線として、それぞれの人物は、どんな立場を代表しているか、と聞く。抽象度のさまざまな言葉が生徒から発せられるから、それを整理していく中で、問いの「四つ」が揃うのを待つ。
 右の一節で言及される人物はそれぞれ次のような概念に対応づけられる。

  • 「王様」→「政治」
  • 「商人」→「経済」
  • 「天文学者」→「科学」
  • 「吟遊詩人」→「芸術」

 最初の一つか二つが出れば、あとは同様の抽象度で概念語を想起すればよい。むしろ、これらの複数の概念の想起は同時であるはずだ。二つ以上の概念と人物の対応が想起されてはじめて、この描写の背後に、「政治」「経済」「科学」「芸術」などという抽象概念の羅列が見えてくる。
 そして先の「文明の指標」はこれらの要素にそれぞれ対応を見出せる。
 d「職業と階級の分化」は「経済」「政治」に対応する。ここに「お姫様・高貴な女性」を加えて「階級社会」などという抽象概念を想起すれば、それもまたdと符合する。
 e「合理科学の発達」はそのまま「科学」、f「支配的な芸術様式」の「支配的」というのは強調されていないが、ココロコにおける「芸術」に関する言及は、冒頭近くと、核戦争勃発の前に見られる。
 g「記念碑的公共建造物」は、「バベルの塔に似ている」という形容からして、ココロコ自体が「記念碑的公共建造物」を表象してもいるのだと考えればいいだろう。
 そしてh「文字」の存在を表象するのが、先に挙げた解釈のポイントの一つ「手紙」やココロコの壁に書かれた文字だと考えられる。ココロコは文字を通じて、文化を、人々の思いを伝達する。
 ココロコが「文明」を象徴していると考えると、さまざまな細部の設定や描写を適切に位置づける読解が可能になる。

 こうした符合は、いささか牽強付会に見えるかもしれない。自分が生徒であったときにも、授業で先生の話す作品の解釈を聞きながら、本当に作者はそんなことを考えて小説を書いているのかという疑問を抱いたことは何度もある。
 だがこれは、そうした計算を作者がいちいち意図して行っていると言っているわけではない。「都市の歴史」を描こうとする物語の力学が、そうした設定や描写を自然に「文明」の諸要素に対応するように発想させているのだということである。

 「長老」「星見やぐら」「旅行日誌」についても生徒に考察させたい。
Q 「長老」「星見やぐら」「旅行日誌」は何を象徴しているか。
「長老」は多面的な性格を持った存在である。共同体のリーダーとしては「政治」を象徴しているとも言えるが、「星見やぐら」で天体を観測するところは「科学」者的な側面ももっていると考えられる。だが観測の結果をもって「ココロコと進路の相談をする」というところは、近代科学的な合理性よりもむしろ、自然との親和性を重んじているともいえる。そこでの「長老」は、自然との交感を司る、司祭のような役割を担っているとも考えられる。古くには宗教と政治はともに「まつりごと」と呼ばれて、不可分なものだった。「科学」もまた魔術と未分化であり、そうした力を持っていることが権力者の要件でもあった。
 「長老」は先の一節にも登場しており、その段階で右のような読解に発展して「政治」「科学」への対応が言及されてもいい。
 また「長老」のつける「旅行日誌」は「記紀」のような民族の歴史書であり伝統の継承を象徴するものだと考えられる。それを編纂し所有する「長老」は、文明の観察者であり記録者でもある。「文明」の諸要素として「歴史」「伝統」という概念も提示しておこう。

 「長老」の考察にからめて、次の時期についても考察しておきたい。
 新大陸で「物質文明・科学技術文明」を発達させたココロコについて述べられる次のような一節がある。
長老はもういなくなっており、住民たちは合議制でココロコの進路を決めていた。
率直に聞いてみる。
Q この状況をどう考えればいいか。
補助的に、住民の合議制で物事を決めるというのは何やら良いことのようにも見えるが、実際どうなの? と聞いてみる。独裁制より民主制の方が良いものだというのが一般的な通念だ。だが、物語においては、この時期がココロコが象徴する「文明」にとって好ましい状態ではないような印象がある。なぜか。
 生徒に訊いてみると、合議制で進路を決めるようなやり方では、ココロコの意志が無視されていて可哀想だ、と言う。確かにこの時期「ココロコは彼ら(住民)の要望に応えようと必死だった」と、憐れにも思える奮闘を強いられている。
 ココロコが「人々の願望」の象徴だとすれば、ココロコの行動は「人々の願望」そのものである。だがココロコが可哀想に見えるとすれば、ココロコと「人々」の間に使役-隷属関係のような乖離があるからである。ココロコの行動が「人々の願望」の顕現なのだと言ってしまえば、「ココロコが可哀想」などという感想はありえないはずだ。なのにこの感想は的外れだとも思えない。
 だが一方で、生徒のこの感想はココロコを擬人化しすぎている、とも言える。ココロコと「人々」の乖離は認められるが、一方でこの時期が何かしら好ましくないような印象があるとすればそれは単に「ココロコが可哀想」というような情緒的な言い方でなく表現されなければならない。
 どう考えればいいか。この時期のココロコの状況を「長老」の不在=欠落という観点から考えてみよう。
 生徒は「長老」というリーダーがいないことで、人々が烏合の衆と化している、といった趣旨の発言をする。だが「合議制」は、人々がそれなりの秩序を失っていないという印象を与える。そこでの「議長」がリーダーであってはなぜいけないのか。何よりその「合議制」が問題だと感じられるのはなぜだろう。
 そこで「文明」である。「文明」は単にそこにいる「人々の願望」を集積したものではない。「文明」とは単なる「人々の願望」を越えて蓄積され生成された何物かである。
 先の考察に従って「長老」が人々と自然の仲介者だとすると、そのとき、ココロコという「文明」は自然とのつながりを失ってしまったのである。住民の欲望にしたがうことで自然のリズム、テンポから離れた急速な変化を求められ、人工物を埋め込まれた姿に変わってしまったというのがここでココロコがおかれた状況なのだと考えられる。
 また「長老」が歴史を記録し、伝統の継承を担う存在だとすれば、新しい移住者の欲望にしたがうことで、ココロコという「文明」は歴史を忘れ、伝統を棄ててしまったのである。住民による「合議制」という言葉が示すのはそうした歴史の忘却を意味している、とも考えられる。
 「文明」とはそこにいる「人々の願望」によって生み出され、方向付けられるものではあるが、同時に、自然との調和によって、ある意味では他律的に、伝統の蓄積によって、ある意味では自律的に存在するにいたった何物かである。

 さて、「旗」は、ある文明の存在を表象するアイコンのようなものを想定すれば良いのだろうか。現状では適切な対応物を想起できていない。

 また、授業では同教科書に収録されている三島由紀夫「小説とは何か」の読解とからめた考察を展開した。
 三島は、柳田国男の『遠野物語』中の一編の分析を通して、小説とは言葉によって虚構が現実を震撼させるものであるとして、その鍵になるのが、『遠野物語』の挿話に見られる「炭取の回転」だと論じている。「オデュッセイア」が寓話でも神話でも、子供向けのいわゆるファンタジーでもなく、近代的なファンタジー、つまり「小説」であるとすると、炭取はどこで回っているのか。
 「小説とは何か」の論旨がそれなりに理解されていると、生徒は何かしら「オデュッセイア」からそうした論旨に合う要素を探すことが可能になる。むしろそこでこそ「小説とは何か」の論旨が理解されているかどうかが試されているのだと言ってもいい。
 「炭取の回転」とはつまりは小説にリアリティをもたらす描写のことである。生徒の挙げるあれやこれやを、なるべく「小説とは何か」の論旨と「オデュッセイア」の世界観をつなげるように、こちらでさりげなく語り直す。生徒の挙げる「オデュッセイア」の一節が、小説世界にリアリティをもたらしているかを検討する過程自体が実は物語を想像によっていくらかなりとリアルに変えていっているようにも思う。
 そのうえで、授業者が指摘するのは、先にも触れた、ココロコの「足」である。小山が動くという突飛な設定に、微妙なもっともらしさを与えるこの描写こそ、「オデュッセイア」における「炭取の回転」だと筆者は考えている。この瞬間に、町が山ごと動くという突飛な発想による虚構が、いくらかなりと現実を震撼させていると感じるのである。

 「年代記」としての骨格を捉え、「近代的なファンタジー」としての物語を「小説」と重ね合わせ、さらにそれを「寓話・神話」として読む。授業における「オデュッセイア」読解の可能性を探ってみた。

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