2016年1月1日金曜日

映画『桐島、部活やめるってよ』

 「桐島、部活やめるってよ」という小説が話題になっている頃、題名だけ聞いて、うまいものだと感心していた。「俺、部活やめる」でも「お前、部活やめるのか」でもない。この会話は、「桐島」のいないところで「桐島」以外の者の間で交わされている。しかも「やめるんだって」でも「やめるってさ」でもない。情報がそれほど間接的になっているわけではなく、ほどほどに確度があって、かつそのことが明らかにこの会話の主たちに動揺を与えうる出来事であることが、この語尾のニュアンスから確実に伝わる。これだけの台詞で既にさまざまなドラマの生起を想像させる。

 さて、とうの小説は読んでいない。
 正月に大学生二人が帰省して、久しぶりに家族全員が揃ったところで、夜更かしがてら子供三人とこの映画を観た。日本アカデミー賞の作品賞だから、最初から期待値のハードルが高い。
 同時に、この映画が撮影された時点で、ほとんど映画初出演だった俳優たちが、その後あちこちで活躍するようになり、あの俳優はあの作品で共演しているとか(橋本愛と松岡茉優が「あまちゃん」で、松岡茉優と東出昌大が「問題のあるレストラン」で、とか)、前野朋哉は『見えないほどの遠くの空を』でも映画部員だったよなあ、とか、太賀は、つい最近「超限定能力」(悲しくなるほど質の低いフジテレビの「ヤングシナリオ大賞」作品)で見たばかりだとか、山本美月は「64」の演技が素晴らしかったとか、役柄を俳優の仕事ぶりを評価するように見てしまったところがあって、純粋に登場人物として見ていないところがバイアスとなっているきらいもある。
 そう、すごく高い評価にはならなかったのだ。これがアカデミー賞の作品賞? という落胆があった。
 期待値が高くなければ、それなりに好もしい印象を持てる作品ではある。好きだ、と言ってもいい。
 だがどうも「すごい」という感じにはなれなかった。「うまい」とか「そつない」とは思うが。
 なんだか、わかりすぎるのだ。キャラクター造型も、いちいちの演技も、物語の中での「意味」が、それぞれ言葉で説明できるくらいはっきりしている、いわば底が見えていると思えてしまった。
 むろん、わかるものはつまらない、などと一概には言えない。わかるし、すごいし、感動的でもあるような作品はある。だがこの作品が「すごい」というような感じはなかった。こんな構成、どんな頭で考えているんだ! とか、この画面はどういうセンスで思いつくんだ! とかいう感嘆が起こらなかったのだ。
 わからない映画はわからないことが不満でもあるのだが、わかりすぎるのも不満というのは観客の我が儘だが、まあそれはそういうものだ。

 映画評を書くために、とりあえずネットの評価を一瞥しておくのだが、これがまた絶賛の嵐で、目を通すのにえらく時間がかかってしまった(こういうのは宮崎駿の『風立ちぬ』以来)。
 ブログで映画評をやっているような人には、あれこれ思うところのある映画なのだろうという感じはわかる。だが、クライマックスで「泣いてしまった」という記述が頻出するのには参った。そうか、俺は邪念が多すぎて素直に鑑賞できなかったのだろうかと反省したり。
 だが一緒に見ていた子供達の反応も芳しくなかった。現役高校生にも、最近まで高校生だった者たちにも。これはなんだ? どういうわけだ?
 たぶんあの映画に感動するには主人公である映画部員「前田涼也」(神木隆之介)か原作小説では主人公だという「菊池宏樹」(東出昌大)に思い入れる必要があるのだ。
 そしてそれは表裏一体でもある。スクールカーストのヒエラルキーの最上位と最下位の二人の立場が逆転するところがこの物語のカタルシスなのだから、前田に思い入れて快哉を叫ぶのと、菊池に思い入れて自らの虚無を噛みしめるのとは、同時に観る者に感じ取れるのでなければならない。
 この映画の絶賛と高評価は、こういう人たちに支えられているのだと思われるが、それは社会の大多数ではない。大多数は最上位でも最下位でもない(あたりまえだ)。同時に最上位にいて虚無を自覚してもいないし、最下位にいて充実するものを持たない者が世の中ではほとんどだ。そうした大多数の者が「泣く」ほど、普遍的な「泣ける」映画ではないのだ。
 だからこの映画に思い入れる人というのと、映画についてブログに長い記事を書く人というのが、同じような特殊性を持っている可能性はある。
 あるいはアカデミー賞あたりの高評価は、単にヌルい「秀作」誉めじゃないかと思う。

 さて、この映画が何を語っているか(とりわけ桐島の不在が意味するもの)については、多くのブログの映画評に語られているから割愛する。それはこの映画の好もしさとして評価する。面白い。冒頭に書いたとおり、よくできている。
 同時に、結局これって、真面目に部活やる高校生活っていいよ、という、大いに賛成するにやぶさかでない結論を語っている物語でもある。それも良い。
 あるいは物語的なテクニックとしての多視点描写、とりわけ冒頭しばらくの、同じ日時のできごとを繰り返し、別の視点から語り直す構成は、無論面白い。『バンテージ・ポイント』『戦火の勇気』『閉ざされた森』…、小説でも漫画でも、時間をかけて思い出せば枚挙にいとまないはずだ(小説ではとりあえず上遠野浩平の「ブギーポップは笑わない」を挙げる)。こういうテクニカルな構成は、とにかく楽しい。たとえ「すごい」とか「泣ける」とかいう感想にいたらないとしても。

 そうした好印象を認めた上で不満を書いておく。
 作品評に「ないものねだり」を語るのは御法度であることは承知している。八百屋に行って魚を売っていないと文句を言ってもはじまらない。だが、八百屋の品揃えに不満を言うのは構わないはずだ。

 登場人物の誰もが、どこかにいそうなリアリティを持っている、というのがこの映画を高評価する際の定番の語り口だ。だが同時にそれは典型的な「タイプ」でしかない、ということでもある。「ああ、こういうやつ、いたよなあ」と言うときに、同時にそういう一面を巧妙に切り取って見せてはいるがそれは一面の「キャラ」でしかないというような印象にも地続きであるように思える。
 だからこそ、それぞれの登場人物が「こういうポジション」として紹介できてしまう。松岡茉優の天才も、いかにもありそうなその「キャラ」を現出させることにおいては見事だったが、そうして描かれる人物はつまりその程度でしかない。これは脚本と演出の問題だ。
 それが最もひどい形で現れているのが大後寿々花演ずる吹奏楽部部長「沢島亜矢」だったと思う。亜矢の個人練習の際の演奏や、部活における振る舞い方にどうにもリアリティがないというのは実際に吹奏楽部の娘二人の言だ。せっかく鈴木伸之のバレーボールとか橋本愛のバドミントンとか東出昌大のバスケとか、本当にプレーを見せられるキャスティングをしているのに、野球部員の高橋周平が素人まるだしの素振りを見せてしまうのは仕方がないとしても、亜矢の演奏は吹き替えで良いはずなのにまるで素人の音だし、部活の中での部長としても、あんなにリアリティに欠ける振る舞い方をさせてはならないはずだ。
 前田(神木)との対峙で場所を譲らない場面にしても、不自然を感じさせないだけの理屈はなかった。だから亜矢の振る舞いが単なる我が儘、無茶にしか見えず、まるで学芸会のような感情過多なキャラクターになってしまっていた。あそこは、譲りつつも未練を押し殺した演技をさせるべきなのだ。「セクシーボイスアンドロボ」で天才的な演技を見せた大後にそれができないはずはない。だからあれは完全に脚本・演出の失敗である。
 一方で感心したのは橋本愛の演ずる「東原かすみ」である。いくつもの映画賞で橋本愛が個人賞を受賞しているのは、もちろん演技力の問題でもあるが、それが松岡や大後に勝っているというよりも、脚本と演出の問題だ(いや本当に橋本愛の天才が飛び抜けているのか?)。
 最初は、グループの女子にも安易に同調しない、真面目に部活をやることを厭わない、そして主人公前田の理解者になる立場として描かれているのかと思わせておいて、前田と正反対の立場にいる「チャラ男」寺島とつきあっているという驚愕の展開には、いつも一面的に描かれる他の登場人物とは一線を画すリアリティが生じていた。
 これは物語の展開がかすみに与えたリアリティである。
 だが、前田にとって、また同時に前田に思い入れる観客にとって残酷なこの設定が、だからといって、結局あの娘もそういうやつなんだ、結局ヒエラルキーは強固なのだ、というようなパターンに陥ってしまうことにはならない。
 この展開の後で、やはりかすみは全面的な「グループの女子」として描かれるわけではなく、場合によってはグループの論理を否定もし、友人の実果に対して示す友情も自然だ。実果の自己否定の言葉を反射的に打ち消して、そのまま一息に「いや、なんのことかわからないけど」と言ってみせる台詞(正確な引用ができないのだが)のうまさには感嘆した。あれは脚本にそう書かれているのだろうか? あまりに見事な呼吸だった。かすみの人物造型は、脚本・演出の成功かもしれないが、ああいうのを見ると(あるいは「あまちゃん」のいくつかの場面を見ると)、もしかしたら橋本愛の「天然」が表出した結果としての造型なのかもしれない、とも思わせる。

 不満を語るはずが橋本愛讃に流れてしまったが、再び不満に戻ると、もうひとつ、クライマックスに至る展開、登場人物たちが屋上に駆け上がって全員集合となるくだりもがっかりだった。そうした切迫感を物語が要請したのだということはわかる。だが一方でそこに感ずる不自然さが、物語を、どこかで見た青春映画のパロディのような不真面目なものに感じさせてしまう。
 物語が観客に期待させるリアリティの水準というものがある。このお話は荒唐無稽なんだとことわっておけば、リアリティなど求めない。寓話なんだとわかれば、物語の要素を象徴として読み取ろうとする。
 だがこの物語のウリは「リアル」じゃなかったのか?
 桐島の不在に苛立って、一刻も早く桐島をつかまえて物申したい者たちが屋上に駆け上がるのはいい。だが例えばバレー部員の中にも温度差があって、そのまま体育館で練習を続ける者がいていいし、風助が屋上へ向かうことはかろうじて許してもいいが、風助を気にする宮部実果が、だからといって屋上へ駆け上がる必然性はない。
 全員を屋上に駆け上がらせるだけの口実(説得的な理由付け)を語らないままで、個々の人物のリアリティを無視して、物語の要請に従って人物を動かしてしまう展開に、やっぱり作り物感が滲み出てしまうのだ。

 もうひとつ。
 物語の重要な要素である、映画部の設定である。もちろん前野朋哉演ずる前田の友人、武文も、その他の映画部員も実に良かった。部活動の映画撮影にあたって、女性役を演じているのがロン毛の男子部員だというのも、実に良い。前田と武文が、いちいち部屋の出入り口でお喋りして、通る人の邪魔になってしまうという演出も良い。
 映画部顧問が「お前らの半径1mのリアルを撮れ、例えば恋愛とか」と言われて、前田が自分のリアルはゾンビ映画を撮りたいということだというのも実に納得できる。こういう顧問の思い込みは、以前NHK杯放送コンクールにからんで、実例を知っている。
 だがそれで自分で脚本を書いてしまうような顧問がロメロの『ゾンビ』を知らないという設定はいけない。上にあげたような、物語の論理が優先してリアリティが損なわれる例である。前田と対比させたいという論理が、『ゾンビ』を「そんなマニアックな」と評する台詞を顧問に言わせているのだろうが、あそこは「『ゾンビ』か、まああれは確かに良い映画だけどな…」とでも言わせておくべきなのだ。
 ところで、恋愛映画よりゾンビ映画の方が「リアル」だと言う前田の言葉に、それこそリアリティを感じてしまうのは確かだが、思えばゾンビに惹かれてしまう心性は「リアル」の否定、要するに現実逃避の欲求である。つまりリアルから脱したいという欲求こそが彼らにとってのリアルであり、かつ前田に代表される部活動部員組こそが高校生活のリアルを等身大に生きている、という奇妙に錯綜した構造が(やはりちょっと)面白い。

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