そして「随想」と「評論」は、それほどはっきりした境界などない。だから「絵はすべての人の創るもの」が「評論一」で、「『映像体験』の現在」が「随想」に収められてしまうという、何とも奇妙な括り方も、まあ目くじらをたてるほどのことはない。
ともかく、「花のいざない」を捲って次に現れる茂木健一郎の「『見る』」はどう「使う」ことが可能か。
「絵はすべての人の創るもの」について、指導書には、
「見る」を学習する際に、もう一度立ち返って読ませたいと書かれていて、ある種の「読み比べ」が想定されているのだが、実際のところどういった授業展開を想定しているのかは不明である。一方「『見る』」の方には「絵は…」を受けた記述はない。こうした一方通行は、恐らく指導書の執筆担当者が別々であるためだろうが、惜しいことだ。
もちろん、そうした「読み比べ」をすることにはそれなりに意義がある。両者を比較して気づくのは「人間の目/カメラ」という比較によって、人間の「見る」という行為の独自性を説明しようとする、という論理操作が共通していることだ。といって、この「読み比べ」は、読解過程の全体に渡るほどの射程はない。比較することで認識が深まるような関連性が見出せないのだ。「絵は…」の方は、先に述べたようにいわば受容理論や読者論などに通じる、作品を受け取る側に注目する芸術享受理論を語っているのに対し、「『見る』」は認知心理学的水準が問題にされているからである。
だがそれを確認するだけでも意味はあることだ。ただ、そうした「読み比べ」に導かれて読解が進むと言うより、読解が進んでからの総括として考察することが可能な「読み比べ」だと言った方がいいだろう。
そういう意味で「絵は…」と読み比べるならば、使用頻度の高い教科書教材としては清岡卓行の「ミロのヴィーナス(「失われた両腕」「手の変幻」とも)」が手頃だろうか。「芸術」という観点で共通性を考察させることで、両者の文章の核心を捉えることができそうである。
例えば次の一節などは、「読み比べ」ることが可能である。
ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難い神秘的な雰囲気、いわば生命の多様な可能性の夢を深々とたたえている。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心象的な表現が思いがけなくもたらされたのである。「ミロのヴィーナス」
鑑賞がどのくらい多種多様であり、どんなに独特な姿を創り上げるか。それは、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。この、単数でありながら無限の複数であるところに芸術の生命があります。「絵はすべての人の創るもの」芸術が、受け取る側によってさまざまに姿をかえること、そこに芸術の価値を見出すこと。「花のいざない」にも共通したテーマをここに認めることができる。
翻って、では「『見る』」をどう読むか。「疑問形」を使ってみよう。これも題名を使うと容易である。「『見る』とはどういうことか?」である。もちろん、題名を見ただけでこの変換を考えさせるわけではなく、一読したあとで問うのである。こうした変換は、それが妥当なものであるという感触と相互に支え合って可能になるからだ。つまり、こうした「疑問形=問題提起」を想定するときには、その疑問・問題の答えが文中から見つかるはずだという予想ができているということである。漠然と読むことに比べて、こうした疑問を心に留めながら考えることの間には大きな差がある。問題意識が明確であれば、この文章のキーセンテンスが次の一文であることは、比較的容易にわかる。
「見る」という体験は、その時々の意識の流れの中に消えてしまう「視覚的アウェアネス」と、概念化され、記憶に残るその時々に見ているものの「要約」という二つの要素からなる複合体なのである。
さて「対比」はどうだろう。本文を読み進めると、すぐに「脳(に視覚的な記憶を蓄積するメカニズム)/ビデオカメラ(がテープなどの記憶媒体に映像を記録する機構)」という対比がみつかる。「人間の目/カメラ」もしくは「見る/録画する」である。この文章は「『見る』とはどういうことか?」という問題の答えを提示するものであるから、つまり「録画する」にはなくて「見る」にあるものを明らかにすることで論が進んでいくことが予想されるわけである。途中まではこの対比を意識することで、筆者が何を明らかにしようとしているかは読みとれる。
半ば近くまで読み進めると上の一文が登場する。ここから「視覚的アウェアネス/要約」という対比が読みとれる。これは最初の「見る/録画する」という対比と同一軸上に並ぶか、と問う。並ばない。「視覚的アウェアネス/要約」は対立ではなく、二つ揃って「見る」という体験を成立させているからである。
「対比」には「対立」「類比」「並列」の三種類があると、しばしば生徒に言う。「見る/録画する」は「対立」、「視覚的アウェアネス/要約」は「並列」による対比である(ちなみに「読み比べ」によって併置される対応関係は「類比」である)。
対比が提示されたら、「源泉掛け流しの温泉」「贅沢な空間性、並列性」「圧倒的な豊穣」「豊穣な喪失」などの表現も、どちらの対比の上下どっち? と聞くことによって、受け止める構えをつくることができる。これらの文言は、教師にとって、恐らく生徒にはわかりにくいはずだ、と感じられる表現であり、だからそうした文言が指し示す「内容」を「教え」なければならないと考える教師はその「説明」に頭を悩ませることになる。
だが何度か触れたように「わかる」とは、情報の、何らかの位置づけができたということである。だから「どっち?」という選択肢の示された問いの形式は、生徒の思考を活性化させる上で有効である。「どういうこと?」という問いは、それを包括的に考えることこそ高度な要求として学力の高い生徒には投げかけたい問いなのだが、現実にはしばしば、生徒にとって思考の方向が定まらずに無為に流れてしまう。
それに比べて、座標軸が定まると、考えるべき方向がはっきりする。上下どちらかを考えることは、この対比がどのような要素の対比なのかを考えさせ、同時に該当の表現が何を意味しているかを考えさせる。これらは再帰的に相互に根拠づけられるような思考である。もちろん生徒はそのことを自覚してはいないが。
例えば「源泉掛け流しの温泉」は文脈上、対比の上項「見る」の側に位置づけられるが、それは「見る/録画する」という対比の対立要素のうち、上項の何らかの属性が「源泉掛け流しの温泉」と表現されることを意味している。そして「源泉掛け流しの温泉」と対比的な表現を考えるならば、例えば「沸かし直しの風呂」とでもいったような比喩になるだろう。こうした思考が、対比の意味と「源泉掛け流しの温泉」という比喩の意味を相互に往還しながら明瞭にしていく。
さて、読解における「対比」の有用性をもうひとつ。
「『見る』」の最初の4頁は、「見る」という体験の本質を、認知心理学的水準で明らかにしている、と捉えることができる。では、「モナ・リザ」を題材にした後の2頁は何を言っているのか? 指導書の言うように「絵画という芸術の奥深さ」について述べているのだろうか?
もちろんそれは間違ってはいない。だがそれでは、前半から後半にかけての展開の様相は、充分に必然のあるものとは感じられないはずだ。後半を読んで、「なるほどそうか、芸術というのは奥深いものなのだな」などと納得することが、「『見る』」を読んだことになるのか?
そこで「視覚的アウェアネス/要約」という対比(並列)によって、前半と後半の関係捉え直してみる。すると、次のように表現することができる。
まず「見る」という体験が「視覚的アウェアネス/要約」という二つの要素によって成立していることを明らかにしたうえで、最初の4頁は二つのうちの「要約」について重点的に述べ、後の2頁は「視覚的アウェアネス」も重要だということを言っているのである。こんなふうに表現してみると、「『見る』」全体の論理構造が一掴みにできる。
これは、もう一つの読解ツールである「疑問形」からも納得できる捉え方だ。「絵画という芸術の奥深さ」といった捉え方は「芸術とは何か?」という疑問形に対応している。だが、文章全体の問題提起は「『見る』とはどういうことか?」と考えた方が妥当だろう。とすれば、上記「対比」による捉え方の方がそうした問題提起に的確に対応していることは明らかである。
国語科授業のメソッドとしての「読み比べ」は教材理解にも有用だが、それのみを目的としたメソッドではない。つまり「読み比べ」をすると文章の内容が理解しやすくなる、と言っているわけはないということだ。そうではなく、有効な国語学習のためのメソッドとして、あるいは授業を構想する際のメソッドなのであり、その過程で余録のように、そこでとりあげた教材文の理解にも有用だと言っているのである。
したがって、取り上げる文章を教科書収録教材に限定する必要などない。先の「ミロのヴィーナス」についての言及もそれを想定している。
だが、第一学習社「高等学校 国語総合」には志村史夫「科学の限界」という文章が収録されている。この文中には次のような一節がある。
視覚的に、我々に〝ものが見える〟というのはどういうことなのだろうか。この、「『見る』」で提起されているのとあまりに似た「問題」は、「読み比べ」に使えないのだろうか?
残念ながら、それほど有用な「読み比べ」は期待できない。その点は「絵はすべての人の創るもの」同様である。
「科学の限界」では「見る」ことは次のように説明されている。
物体から反射された〝可視光〟が、我々の視神経を刺激し、その刺激を大脳が認知することで物体が〝見える〟ということになる。これは言わば生理学的な水準で「見る」ことを捉えている。先述の通り、「絵は…」は読者論などのような芸術受容理論的水準、「『見る』」は大脳前頭葉における情報処理のような認知心理学的水準が問題にされているのだといえる。そしてそれぞれの文章は相互の水準にまで議論を広げることを目的としていない。そこでは共通した話題が扱われていながら、筆者の関心はほとんど重なっていないのである。両者を重ね合わせることで双方が「腑に落ちる」、という、「『映像体験』の現在」と「花のいざない」のような劇的な体験は期待できない。したがって、そうした考察はそれなりに意味はあるが、授業展開全体にわたる「読み比べ」は構想しにくい。
「『見る』」と「読み比べ」ることが可能な評論教材としては、例えば大森荘蔵の「見る-考える」(『流れとよどみ』所収)などが想起される。この文章は、「『見る』」と「科学の限界」双方と読み比べると興味深い文章である。茂木「『見る』」と志村「科学の限界」の「読み比べ」がそれほどの有用性を見出せないにもかかわらず、茂木「『見る』」-大森「見る-考える」-志村「科学の限界」と並べてみると、面白いことにそこには濃密な関連性(比較可能性)がありそうには見えるのである。
もう一つ、思い出すのは小林秀雄の「美を求める心」である。脳科学者である茂木が、全体として「要約」の方に多くの紙幅を割いて論じているのに対し、小林ははっきりと「視覚的アウェアネス」の方を称揚していると言える(もちろん茂木が小林のこの文章を知らないはずはない)。例えば、
見ることはしゃべることではない。言葉は目の邪魔になるものです。などという一節は、茂木の用語を使うなら、「要約」に拠ってではなく「視覚的アウェアネス」そのものを味わうことが「美を求める」ことだと言っているのである。
「当麻」の有名な一節、
美しい花がある、花の美しさという様なものはない。も、「美しい花」が「視覚的アウェアネス」に対応しており、「花の美しさ」(=「観念」)が「要約」に対応しているのである。
ここまで書いてきて、ここで小林が言う「花」が、世阿弥の「花」であることに突然思い至った。とすれば、これは観世寿夫「花のいざない」につながるはずだ。「花のいざない」―「美を求める心」―「『見る』」とつなげてみれば、そこには「花のいざない」と「『見る』」の「読み比べ」の可能性が浮上してくる。観世寿夫が「花のように舞台に立ちたい」というとき、小林の「美しい花」が念頭に置かれていた可能性は大いにあり得る。
だがここではこれ以上の考察はしない。
もう一つ、この教科書内で「『見る』」と「読み比べ」たい文章は、夏目漱石の「夢十夜」である。
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