観た映画のことだけは書き留めておこうというのがこのブログの基本ルールだ。
実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。
観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』や『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。
そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。
それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。
画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
さて、『見えないほどの…』ではどうか?
まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか?
あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。
続く。
実は3月9日の『Tightrope』の記事の後、4本の映画を観ているのだが、その1本目の感想を書こうと思って書けないまま、映画の記事は止まってしまっていた。それでブログの更新自体も滞っていた。その間「『読み比べ』というメソッド」を連載したりしていて、さらに「感想」が滞った。そのあおりで映画を観ること自体も滞った。
ようやくアップする。3月9日に観た『見えないほどの遠くの空を』(監督:榎本憲男)の感想。
観て以来書き倦ねて一ヶ月以上過ごしてしまった。観捨ててはおけないのだが、かといってものすごく感動したとか感心したとか感服したとかいうようなことは全くなく、観ている最中も、なんだこの稚拙な映画はと思いつつ、でも途中でやめるという選択肢は全くなく、何かに落とし前をつけなければ、とでもいったような感じで最後まで観たのだった。
この感じは、ハリウッド映画を観ているのと全く違ったものだ。『Mr&Misスミス』や『昼下がりの情事』などを観るという体験は、まさしく「映画」を観るという体験の粋に違いないのだが、一方で『見えないほどの…』のような映画を観る時にも、それとは全く違った「映画」を観るという感覚を味わう。そしてこれはまた、『川の底からこんにちは』のような商業ベースの邦画を観る時とも全然違う感覚だ。あるいはヨーロッパなどの「芸術」作品としての映画を観る時ともまた違う。
ハリウッド映画が作り手の現場を想像させないほどの完璧さで異世界を作り上げて、それがもう一つの「現実」であるかの感触を感じさせるのに対して、自主制作に近い邦画を観る時には、それは作品を見ているというよりは制作者の頭の中や、制作現場そのものを見ているような感触があるのである。
だからこそなんだかあれこれと考えてしまう。否応なく「自分だったら…」と考えさせられてしまうのだ。
そもそも大学の映画サークルを舞台にしているというのだから、もうどうしようもなく素人臭がしてくるのは必然だ。自己言及的で閉塞的な世界観になることは避けられない。おまけに映画サークルのメンバーだけで主たる登場人物が占められていて、その多くは無名の若手役者だ。演技も稚拙でいかにもの「お芝居」だ。制作の事情を調べてみると、とにかく低予算で作ったものだという金のかかってなさも、実にチャチい感じを醸し出しているのだ。
だがそれでも、映画が面白くなるかどうかには、決定的な制限を加えるわけではない。ほとんど関係者のボランティアでできているという制作費の少なさが宣伝になっている『COLIN』が、アマゾンのカスタマー・レビューの惨状にもかかわらず、私にとっては最上級の賛辞を惜しまない傑作であるように、一本だけなら何とでもなるはずなのだ。
だが結局『見えないほどの…』は、やはりどうしようもなく素人臭い、凡作であることから逃れられていないのだった。
それでもなおかつ、どうにも観捨てておけない、そのひっかかりを、二つの点から語ってみる。
ひとつはその、映画的技法、もっと言えば映像トリックについてだ。
画面の中に登場して、観客には見えている人物が、実は物語の中には存在しない、という設定で描かれる映像作品がある。
そのトリックの最も効果的な使用例として永遠に語り継がれるだろう傑作が言うまでもなく『シックス・センス』だが、そこがメインテーマではないものの、かなりの驚きを感じさせてくれた行定勲の『今度は愛妻家』や、序盤だけだが青山真司の『東京公園』、アニメーション作品では『東京マグニチュード8.0』など、その使用例はいくつか思い出される。井上ひさし作、黒木和雄監督の映画版「父と暮らせば」もそうだったかな?
『見えないほどの…』でも、観ている最中、たぶん映画の中頃あたりで、どうもそれを狙っているのじゃなかろうかと思いだし、そういうオチになる可能性を想定しつつ見ていたら、オチというほど終盤ではなく、わりとあっさりとその可能性が肯定されてしまう。「そうだったのか!」というには軽すぎる。「やっぱり、ね」くらいだ。
このトリックは、わざとその人物に特別な映像処理をせず、他の登場人物と同じ位相にいるもののように見せることが前提となる。その上で、登場人物とごく自然に会話をさせる。観客には単なる登場人物の一人として映る。だが実は彼・彼女は劇中には存在しないことが、後から知らされる。
こうしたトリックについても、その設定の分岐点はいくつかある。
画面に映っているのが物語内現実において存在していない人物(例えば既に死者とか、誰かの妄想上の人物とか)であることを、最初から観客に知らせているかどうか。
奇しくも、最近我が家では大ヒットだった宮藤官九郎の「ごめんね青春」と古沢良太の「デート」では、いずれも主人公の死んだ母親が、主人公だけに見える妄想として画面の中に登場していた。これは、第一話の最初のしばらくだけ、視聴者にも単なるドラマの出演者の一人なのだろうと思わせておいて、しばらくしてそれが主人公の想像の中だけにしか登場しない人物なのだと知らせる、という手法を採っていた。
そこでは、そうだとわかって以降の描写では、そうした「お約束」を揺るがすような展開にはならないから、そうした映像トリックが特別な感興を引き起こすようなものにはならない。妄想であれ何であれ、単なる登場人物の一人となる(ただしそれぞれ、母親が死ぬときのエピソードは紹介され、それは観客の涙を誘うドラマになり得ているのだが)。
『あの花』の略称で呼ばれるテレビ・アニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』も、幼い頃に死んだはず少女が登場するのだが、これは最初の登場シーンから、主人公には彼女が死んでいるという自覚があり、それを視聴者にも明示しているため、彼女は最初から「幽霊」であることが明らかである。ただ、他の登場人物には彼女が見えない、という設定になっているから、視聴者の目には見えている彼女が見えていないという、他の登場人物の認識を、視聴者側に想像させるのが「お約束」だった。時折は他の登場人物の視点から見た映像が視聴者にも提供される。彼女を透明人間のように描いて、彼女の動かした鉛筆だけを宙に浮かべるとか、彼女と会話する主人公を一人芝居のように描いたりして、視聴者の想像を補助していた。
だがまあ、それもそういう「お約束」だとわかればそれまでだ。ともかく、その人物が主人公の妄想なのか何か霊的な存在なのかもまた、やはり分岐点の一つではある。
さらに、見ている主人公の側が、対象となる人物が存在しないことを自覚しているかどうかが、さらなる分岐点である。
『今度は愛妻家』『東京マグニチュード8.0』の一方は、画面上は他の登場人物と変わらず登場しているその人物が実は劇中には存在していないことに自覚的であり、一方は自覚していないが、いずれも、存在していないということを観客に知らせないまま物語が語られ続ける、という手法を意図的に用いている。だから後からその事実を知らされた観客は、いなくなってしまったその人物の喪失感にあらためて共感するとともに、振り返って、伏線としてそのヒントがあちこちに散りばめられていたことに気づく。
『シックス・センス』ではさらにそれを捻って、その「自覚の欠如」を、よりによってその人物にわりふるという離れ業をみせる。
さて、『見えないほどの…』ではどうか?
まず、死んだヒロインの双子の妹が現れるというのはそういう設定だから受け入れるとして、さて、彼女の姿を意味ありげに画面から消してしまう(ただし、彼女がカメラからの死角にいるような口実を作ってはいる)とか、現れ方や消え方を唐突にするとかいった演出が、これはそういうことかと徐々に勘の良い観客に感じさせていくのだが、さてその真実をどうやって観客の前に明らかにするかが問題である。つまり第三者の目には彼女が映らないということをどう劇中で描くか?
上記作品群はその処理がうまいがゆえにそうしたトリックが生きていたのである。彼女が見えていない第三者の反応があからさまなら、実は彼女が存在しないことはすぐに観客に知れてしまうし、全く第三者が登場しなかったり、同一場面で彼女にかかわらないままでは、真実が知れた後に「そうだったのか!」という驚きも起こらない。例えば『シックス・センス』では、第三者が、存在しない人物をわざと無視しているのだろうと観客に思わせておいて(それはもちろん物語上の必然性によって)、実は単に第三者にはその人物が見えていなかったのだと後からわかって膝を打つ、というような処理がされているわけである。
『見えないほどの…』の場合、徐々にヒントを出しながら、そうなのか? という可能性に観客を引きつけていくのだが、さて、種明かしがされたときに、それを観客がどう納得するか、という点でどうにも座りが悪い。劇中では、他の登場人物によって、彼女は主人公の「妄想」だと断じられる。主人公が、存在しない、目に見えない「彼女」と語らっている現場を見ているからだ。主人公は単にその正気を疑われるだけだ。そしてそうであることが、観客にそのまま伝えられる。こうした設定の説明があまりにあっさりすぎて、膝を打つほどの感興を引き起こさないうえに、いなかった人物に対する喪失感もそれほど起こらない。
さてつまりは「妄想」なのかと考えるには、どうも主人公はまともに見える。そこまでオカシクなっているようには描かれない。どうも妙だと思ってみていると、結局は「幽霊」なのだと説明される。
だが始末の悪いことに、そうした真実が明らかになるまで、彼女は単なる登場人物として自然に描かれすぎる(とはいえ無論、素人芝居のこの映画のレベルにあった「自然」である)。それは、彼女が「幽霊」であるという真相とどう見ても不整合である。脚本や演出が、真相を糊塗しようと、彼女を一人の人物として描いているうち、少なくとも「幽霊」であるという自身のアイデンティティを自覚しているはずの彼女がそんなふうに振る舞うはずがないという態度をとったりしているのだ。
それともあれを、幽霊の彼女の「演技」だとでもいうのだろうか。
例えば彼女のTシャツに赤いパンツという何でもない服装でさえ、「幽霊」の衣装としては違和感がありすぎる。そうした衣装は、何でもないからこそ、それはどこから調達したのかと疑問が拭えない。例えば注意深く見ると生前の彼女のある場面の服装と同じであるとかいった伏線でもないのである。それともあれは、幽霊の彼女が「演技」のためにわざと選んだ服装なのか?
あるいは、彼女との邂逅の後、別れた彼女がその場から離れていく後ろ姿を映すのも、どうにも違和感があった。「幽霊」がいったいどこへ向かって歩いていくのか。なぜ話をし終えて、カットで場面転換、としないのか。
結局、映像トリックを仕掛けようとした志は悪くないとしても、その処理はうまくいっているとは言い難い。
続く。
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