2015年4月1日水曜日

「読み比べ」というメソッド 7 ~観世寿夫「花のいざない」を読む

  「『映像体験』の現在」と同じ単元に観世寿夫の「花のいざない」が収録されている。これは、言ってみれば奇跡的な単元構成である。だが、指導書の記述を見る限り、編集部がそのことに自覚的であるような気配はない。単元は「広い意味での文化に関わる」といった括り方が示されているだけである。
 だがこの二つの文章は、読み比べ、参照しあうことでこそ、その最も抽象的で、なおかつそれぞれの文章の中心的な概念について理解できる、取り合わせの妙をなしているのである。

 「花のいざない」は、含みの多い言い回しが多く、一読して何を言っているのかわかりにくい部分の残る文章である。本当なら、何度も読み返して、体に馴染ませる必要のある文章である。
  だがここではやはり「読み比べ」というメソッドが、この文章を読むことにどのような効果を発揮するか、という点から論じたい。

  例えば導入部においては、先に触れた「『間』の感覚」の「花」を題材にした一節が対応することに触れてもよい。
洋の東西を問わず、太古の昔から人間の心には、花に寄せる、ある感性のようなものが持ち続けられてきたのではなかろうか。
は、「『間』の感覚」の
日本人は自然の美しさを愛する民族としてよく知られているが、西欧世界においてもたとえば華麗な花の美を愛好することは(…)明らかである。
とよく似ている。そしてその差異を語ることが中心的なテーマとなる「『間』の感覚」に比べて「花のいざない」では東西の対比は強く表面化しないものの、筆者の、東西の差異に対する認識が、おそらく無意識に表出している記述もないわけではない。例えば次のような一節。
自然と協調して生きるにせよ、自然と闘い、征服しつつ生きるにせよ
むろん前者が「東洋」で後者が「西洋」である。
  だが「花のいざない」を「日本人の自然観」といった主題によって、「水の東西」などと「読み比べ」ることにはそれほどの実りはないように思える。共通するのは「自然への親和性」くらいのありきたりの日本人論に過ぎないからである。
 「花のいざない」は、最初の1ページを過ぎると早々に、話題の中心が植物の「花」から世阿弥の「花」論に移ってしまう。問題はここからだ。この、高校生にはきわめて捉えにくいであろう「花」という概念をどう考えさせるか。

 「花のいざない」は難しい。平易な語り口であるにもかかわらず、結局のところ何を言っている文章なのかピンとこない(この感じは内山節に似ている)。これは、この文章の「仮想敵」がはっきりしないことに因る。文章は、それについて考えたことのない人か、反対する人に対して述べられたものだ。だが「花のいざない」は、そうした対象とする読み手が想定しにくく、どんな考え方に対置されるような考え方が提示されているのかが把握しにくいのである。「対比」を読み取ることが読解のための強力なメソッドとなるように、「対比(対立)」を形成しない言説は理解するのが難しい。
 そこで先述の、文章のテーマをまず疑問形で表現してみる、という方法を用いてみる。「『花のいざない』とは何か?」が安直な変換であるが、これはだたちに「『花』とは何か?」「誰をいざなっているのか?」などに変形できるから、こうして問題が明確に意識されれば筆者の主張をどういった方向で捉えればいいかが考えやすくなってくる。問題となる「花」とは、世阿弥の「花」論における「花」である。この「花」とは何だろう?
 端的に「本文ではどう説明されているか」と聞く。「『花』はどう定義づけられているか」などと言い換えもする。本文から、この問いに対応する部分を探させるのである。
  本文では「すなわち演技者の肉体を通して発顕するあらゆる魅力」という定義が最初になされている(しばらく後で「舞台での生き方、舞台での美しさの現れ」と表現されているのもほぼ同じ定義だ)。ここからが植物としての「花」ではなく、能楽における「花」のことが話題になっているのだ、と確認して先を読み進む。
 次に「しかし」と逆接によって再定義されるのは「観客が反応するもののこと」という概念である。「花」とは、舞台上にあって役者が発顕しているにもかかわらず、それは「観客」の「反応」において捉えられるというのである。
 この構図は見覚えがある。すなわち「絵はすべての人の創るもの」や「旅する本」で作者が提示して見せた思想である。「花のいざない」と「絵は…」の頁を指定して共通する表現を探させると、生徒はすぐに「十人(いれば)十色」という表現を見つける。
一枚の絵を十人が見た場合、その十人の心の中に映る絵の姿は、それぞれ全く異なった十だけのイメージになって浮かんでいるとみて差し支えありません。…同じように好きだといっても十人十色、その好き方はまたさまざまです。(「絵はすべての人の創るもの」)
だが、いかに単純な「花」にしても、観客は種々雑多、十人いれば十色のものなのだ。(「花のいざない」)
舞台に咲く「花」が観客によってそれぞれ別なものであるように、「絵」の価値はそれを見る者が「創るもの」だと岡本太郎は言う。ここから、「花のいざない」の「花」を、「絵はすべての人の創るもの」で語られる「芸術作品」との類比から捉えることができる。
それ(芸術作品)は、見る人数だけ無数の作品となって、それぞれの心の中で描き上げられたことになります。(「絵は」)
一つの花を誰かが見ている。見る人の心々にさまざまな思いが生まれる。(…)花によってその色香はまちまち、見る人の描く夢もまちまちなのだ。(…)観客一人一人がさまざまなイメージを育み持てる、ひともとの花…(「花の」)
  つまり、岡本太郎は芸術家として、芸術の裡に「花」を見出すのは鑑賞者自身であると説いているのに対し、観世寿夫は役者としての立場から、観客と「一期一会」の出会い方をする覚悟を述べているのである。

 だが、まだ十分とは言えない。「花」が「花」であるための条件である「自然」=「偶然でもあり必然でもあること」という表現は、難しい言葉を使っているわけでもないのに、ちっとも掴めている手応えが得られない。精読を通して少しずつ実感させていく必要のありそうな概念なのだが、本文を繰り返し読み込むことがそれをどれほど可能にするかは心許ない。
 「旅する本」で「私」がそれぞれの年代で出会った「本」をそのような「本」としてあらしめた「偶然・必然」を考えるとき、ここでの「本」はそれぞれの「私」にとっての「花」だったのだ、などと言えなくもない。
 だがこれも、生徒に対して問いを発して考えさせるには、恐らく掴み所がない。語って聞かせれば、感じる生徒は何事かを感じるかもしれないが、多くの生徒にはまるでピンとこないはずだ。

 そこでさらに、「『映像体験』の現在」との「読み比べ」を試みる。
 「『映像体験』の現在」と「花のいざない」を「読み比べ」せよ、というのは、もちろんかなり高度な思考を必要とする課題である。「水の東西」と「『間』の感覚」のように、その対比構造が共通するとか、上のように題材が共通する、といった、並置するためのとっかかりがみつからない。そもそも話題も語り口もあまりに違いすぎて、それらを「読み比べ」ようという発想が浮かぶとも思えない(編集部がそうであるように)。
 したがって生徒が考えるための誘導的なはたらきかけをする必要もある。たとえば、それぞれの筆者の主張を端的にまとめてごらん、と言う。もちろん「筆者の主張を端的にまとめる」などという操作自体が高度である。
 それでも「文中からそのまま抜き出せ」と言い添えれば、「花のいざない」では、次の一節などが挙げられるかもしれない。
自然に咲いている花みたいに、舞台にいたい
一方「『映像体験』の現在」については、先ほどの、本文中の「抽象的でわかりにくい」一節がそのまま最終的に「筆者の主張」である。例えば次の一節。
『アウラ』の輝きに対する繊細な感性を保持し続ける
こんなふうに必要な誘導を可能な限り織り込んで、そこにたどり着く生徒が現れるのを期待していると、そうした直観に至る者は、きっと表れる。

 つまり「」とは「アウラ」のことなのだ。

 重要なのは、こうした結論を「正解」のように教えることではなく、こうした発想に生徒自身がたどりつくことであり、そうした発想に基づいて本文を読むことである。あるいはそうした発想に共感しないものに(共感しているものにすら)どう説明するかである。
  この直観を確かめるために、とにかく本文を読むように指示する。
 確かめてみよう。こうした直観はどのように裏付けられるのか?
 「『映像体験』の現在」によれば、「アウラ」とは「自分にとってかけがえなく貴重な視覚的映像」が「まとって」いるものである。一方の「花のいざない」では「花」とは「観客が反応するもののこと」である。これは前述の通り「絵はすべての人の創るもの」における「芸術作品」、「旅する本」における「本」の捉え方と同じものである。「失恋の直後に見た夕焼けの海」というのは、その「夕焼けの海」の光景が単に「アウラ」を発しているというのではなく、それを見た「失恋の直後」であった自分との「一期一会」においてそれが「アウラ」をまとったということである。「イメージがいくらでも反復可能・再現可能になってきたとき、映像から失われていったのはこの『アウラ』である。」ということは、翻して言えば「アウラ」をまとったイメージは「反復不可能・再現不可能・複製不可能」であるということであり、これはつまり、その場限りでの観客との出会いにおいて「偶然・必然」に舞台上に生まれるものだということである。「夕焼けの海」に「アウラ」があったのは、それが「失恋の直後」であったという「偶然・必然」に拠っているのである。
  これはまさしく、「観客」の「反応」において捉えられる、「偶然でもあり必然でもある」ような「花」そのものではないか。
 つまり「『映像体験』の現在」で松浦が主張するのは、イメージの氾濫の中で「花」を見いだす感性を失わないでいたい、ということであり、「花のいざない」で観世が述べているのは、「アウラ」を発する存在として舞台に立ちたいということなのである。「アウラ」と「花」はほとんど同一の概念として右の文で交換可能である。
  この、それぞれの文章の中で最も中心的であるにもかかわらず、抽象的でピンとこない「アウラ」「花」という概念は、それらを重ねてみることによって俄にくっきりとしてくるように思える。少なくとも、それを捉えようとする思考において、こうした方法が有効であることは確かである。

 だがさらに、こうして語られる世阿弥の「花」が、やはり植物の「花」の類比によって語られていることを忘れてはならない。植物としての「花」と能舞台における「花」は、単に断絶しているわけではなく、一連の論理の中で捉えられている。「花」は「アウラ」であり「芸術作品」であり「本」である。そしてやはり「自然に咲いている花」でもある。
 「花のいざない」の前半部、植物の「花をめづる心」から、日本人の自然観を読み取って、それを「水の東西」と読み比べることにはそれほどの実りはなさそうだと先ほど述べたが、後半の能舞台における「花」のありかたを捉えようとしたとき、再び「水の東西」との「読み比べ」の可能性が浮上してくる。
自然の花は、見せるために咲いているのではない。(…)役者も見せようと思って舞台に上がってはだめだ。
という「花のいざない」の一節は、「水の東西」の
日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじ曲げたり、粘土のように造型する対象ではなかった
と重なってくる。つまり「見せようと思」うのが、水を「造形する」、西洋流の「噴水」なのである。
「自然」は動くものなのだ。宇宙の法則に従って動き、しかも予見できない。無常観もこれにつながる。常ならず流動する、その動き去り、動き来たるところに、存在の真理を観ずる。(「花の」)
は、
水にはそれ自体として定まった形はない。そうして、形がないということについて、おそらく日本人は西洋人と違った独特の好みを持っていたのである。(…)それは外界に対する受動的な態度というよりは、積極的に、形なきものを恐れない心の現れではなかっただろうか。(「水の」)
と重なる。
演者は黙ってじっと座り、地謡が主人公について(…)語るのである。舞台中央に正面を向いて、ただ黙って動かずにいるそのかなり長い時間、いったいどんな心持ちで、どう演じようとして座っているのかと、能の役者は時々きかれることがある(「花の」)。
と語られる能役者の佇まいは
見ていると、単純な、緩やかなリズムが、無限にいつまでも繰り返される。緊張が高まり、それが一気にほどけ、しかし何事も起こらない徒労がまた一から始められる。ただ、曇った音響が時を刻んで、庭の静寂と時間の長さをいやがうえにも引き立てるだけである。
と語られる「鹿おどし」のごとしである。

  こうして、「花のいざない」を読むことによって、ここまでに読んできた「絵はすべての人の創るもの」「旅する本」「水の東西」「『間』の感覚」「『映像体験』の現在」までを一つらなりに捉えることが可能なのである。
 驚くべきことではないだろうか?

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