『The Visit』の「三つの約束」も、どうしてそんな本編とかみあわない惹句を宣伝に使うのかわからないが、この邦題もどうしたことか。もちろん原題の『HUGO』で日本公開するのは勇気がいる。マーチン・スコセッシというだけで問答無用に期待させてしまうほどの映画受容の土壌は日本にはない。となると多少なりとも内容を想像させるような邦題を、ということなんだろうが、だからといって、ヒューゴ、別に発明してないじゃん、という観終わった観客のつっこみをどうするつもりなんだろうか。配給会社の担当者。
スコセッシといえば最近では『ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト』、その前は『ギャング・オブ・ニューヨーク』、その前は『ディパーテッド』か。『タクシー・ドライバー』を観なおそうと録画したのだが失敗して3分の2くらいのところで突然録画が切れていて、はっきりした感想が固まらないのだが、まあとにかくいずれも『HUGO』の感触とつながらない。強いていえば『ギャング』の、街一つを映画のために作ってしまう、人工的な世界観が近い感触だとはいえる。
それでも、冒頭のリヨン駅構内、とりわけ壁の中の、おそらくCD処理を混ぜた長回しとジェットコースターのようなカメラ移動は、とにかく映画の視覚的効果を追究することに執心していて、ドラマを描こうとしているようにみえる『タクシー・ドライバー』の監督のものとは思えない。
どうも妙だとは思っていたが、映画情報によるとスコセッシ随一のビッグ・バジェットで、しかも3D映画だというではないか。なるほどそれであの世界観。視覚効果。
ではドラマの方はどうかというと、それほど感動するようなものでもなかった。批評家の評価が高いらしいが、これは映画中に溢れる映画への自己言及的愛情のせいではあるまいか。
物語中では、こだわる対象が絡繰り仕掛けと本と映画と、どうもバラけたように感じられて、今一つその思い入れに乗れなかった。狙いはわかるんだけどなあ、という感じ。
映画への自己言及と言えば『The Visit』のPOV手法を用いて、主人公たちを映画作りをしている少女に設定するのも、シャマランの自己言及だが、どちらかというとそちらの方に共感もし、映画的にも大いに楽しめたのだった。
調べてみると邦題は、原作本がすでに『ユゴーの不思議な発明』と邦訳されていて、映画もそれに倣ったということなのだろう。映画らしいいい加減な邦題、と思ったのだったが。出版業界もか。それとも原作ではそれなりの「発明」が描かれているのだろうか。
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