2018年10月10日水曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 5 -「ここにいる」ことの肯定

(別の世界では) 二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

「別の世界では」という仮定は言うまでもなく、冒頭から瀰漫している現状への閉塞感の裏返しとして想像されたものである。そこでは「二人」が「姉弟だったのかも」と想像される。救いとしての「弟」が実現する世界への想像が、ここでも主人公を救う。同時にそれは手の届かない世界への憧れであり、現実に対して抱く喪失感でもある。
 さて、主人公とクラスメイトが姉弟であったかもしれない「別の世界」は「砂漠に閉ざされている」かもしれないという。「霧雨」と対極的なイメージとしての「砂漠」が「別の世界」の脅威として設定されているが、ここでもそれは「霧雨」同様、世界を「閉ざ」すものである。
 だがそこには「弟」たる彼がいる。それならば、そんな世界でも「大丈夫」なのだ。
 なんという「弟」への信頼。

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう
 そして一転して続く詩句ではわたしたちが「ここにいる」ことが確認される。現状への閉塞感から「別の世界」が希求されたはずなのに、いや、だからこそ「ここにいる」ことが確認されねばならない。別の世界への想像は、あくまで「ここ」への着地のために必要な手がかりであったはずである。
 そして「ここにいる」ことは「神様の気まぐれなその御手に掬いあげられ」た結果である。「神様の気まぐれなその御手」が「運命」の謂いであることは明らかだが、それがここでは逃げ出したい桎梏であるのか、言祝ぐべき僥倖であるのか。
 もちろんここまでの論理は、この詩句が表すものが、自分たちが今この世界にいることの肯定であることを示している。運命という神様は「気まぐれ」であろうとも、気まぐれであるからこそ、自分たちがこの世界にいることが何らかの悪意によるものではないことを信じられる。
 そしてその在り方は「掬いあげられ」たものである。「掬う」が「救う」の連想に通ずるのはもちろん、「掬う」というその無造作な手つきが、そうしてこの世界に在る自分の存在への諦念と、それゆえの平穏を用意しているのである。
 無論こうした「諦念」は、希望の挫折として強要されたものではなく、「逃避行」の実行と、それに同行する「弟」の存在によって、主人公の腑に落ちるように訪れたものだ。

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