2018年10月4日木曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 4 -「弟」という救い

承前
  サービスエリアで 子どものようにはしゃぐ
  クラスメイトが呑気で わたしも笑う
  弟がいたなら こんな感じかも
  愚かしいところが とても似ている

 逃避行のオートバイは高速道路に入り、二人はサービスエリアに立ち寄る。彼にとってこのツーリングはむろん深刻なものではなく、そして高校生が高速道路に乗ることが日常的であるわけでもないだろうから、彼が「はしゃぐ」のも無理はない。
 そうした彼を「子どものように」とか「吞気」とか言う「上から目線」な言いぐさは、それに続く「弟がいたならこんな感じかも」という感想に着地するのだが、こうした彼の無邪気さが主人公にとって救いになって「わたしも笑う」。自分の抱えている鬱屈から彼が救い出してくれるわけではなく、共感を寄せるでもなく、むしろ他人の鬱屈に頓着しない彼が、主人公の閉塞感を相対化することで結果的に主人公を救っているのである。
 そうした、「王子様」でも「ヒーロー」でもなく、ただ傍にいながらマイペースに振る舞い続ける同行者が「弟」になぞらえられるという、この隠喩としての「弟」のイメージは新鮮だ。
 2番で「姉」と表現されることから、主人公は女の子である。主人公と彼の関係が姉と弟になぞらえられることはどんな意味をもっているか。
 パートナーが同性の兄弟であった場合、「姉」にしろ「妹」にしろ、主人公にとって直截に上下関係になりかねないから、こうした絶妙な距離感が生じない。
 「親」は私を救っても支えてもくれるかもしれないが、同時に抑圧するかもしれない。そもそもの「気が狂いそうな」状況こそ、「親」という存在がもたらしているものではなかったか?
 そして「兄」では主人公を救ってくれそうではあるが、同時にそこに生ずる依存心が主人公のバランスを崩してしまうかもしれないのだ。
 だからこそ「弟」である。彼を「上から目線」で見ながら、その吞気さにつられて笑ってしまうというバランスが、彼女をその閉塞感・鬱屈から救うのである。
 なおかつ、本当の肉親である弟がいつでもこんなふうにさりげなく私の救いになるわけではないから、クラスメイトとして設定され、なおかつそれが「弟」というイメージで語られる、というこの屈折した表現の驚くべき絶妙さは、本当に見事だ。
 だから「愚かしい」もまた愛情の裏返しである。弟を愚かしいと表現することで彼女は救われる。
 それにしても「弟がいたならこんな感じかも」と言っておいてそれが「可愛い」や「頼りになる」ではなく「愚かしい」と表現されることにもニヤリとさせられつつ、それに続く「愚かしいところがとても似ている」に驚かされる。「弟がいたなら」といっている以上、弟はいないはずなのに、「とても似ている」では弟の存在が前提されてしまっているからだ。すっかり、弟は実在することになっていて、その確定的な属性は「愚かしい」ことなのだという。「弟」というのはすべからく「愚かしい」ものであるべきなのだ。
 こうした論理の飛躍と、その断定された前提が、しかし聞く者にあたかもデジャブのように腑に落ちる措辞には本当に驚嘆させられる。

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