2018年10月16日火曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 6 -相対化の果てに

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう
「逃避行」は完全なこの世界からの脱出ではなく、翌日の「水曜」には二人は「町に戻って」くる。既に主人公の救いを感じている聴き手は、その軟着陸に安堵する。
 だがこの詞=詩が聴き手に与える最大の衝撃は、2番に入って「僕」が登場することによる。
 何事かと思う間もなく「あの子」と名指される者が「姉がいたなら」と語られるにおよんで、聴き手は1番における「パートナー」「クラスメイト」が、2番では語り手になってしまったことを知る。
 この語り手の交代は、この歌の世界に何をもたらすのだろう。
 ドラマを動かし始めたのは主人公の鬱屈だったはずだ。彼はそうした主人公の鬱屈からずれたところにいることによって、彼女の鬱屈を相対化し、その閉塞感に風穴を開けたはずだった。そうした相対化の果てに、ついには主人公を第三者としてしまうのである。
 そうした、主人公を外から眺める眼差しが、主人公の内向する眼差しを解放する。
 そして無論その眼差しは、安易な同情や慰めなどでありはしない。彼女がどんな思いで「逃避行」を実行したかに我関せずと、自分は「制服に着替えて学校へと向かう」。その日常的な振る舞いが、この物語に健全さを担保する。
休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう
だからといって冷淡だというのではなく、彼は昨夜の彼女の様子を思い出してもいる。
 「海みて泣いてた」という彼女の姿を「奔放」と表現するセンスもまた見事なものだ。そんな、ドラマみたいなことをホントにやっちゃうのかあ、すげえなあ、とらわれてないよなあ、自由だなあというあっけらかんとした賞賛である。
 そしてそんな「奔放さ」を「ちょっと笑えた」と突き放してもいる。「笑える」という評言は、ともすれば「嘲笑」のニュアンスとして侮蔑的に使われることも多い表現だが、一方で文字通りの「笑うことができる」、つまりユーモラスであるという意味で使うこともできないわけではない。
 ここで彼が主人公の「海みて泣いてた」姿を「笑えた」と表現するのは、そのどちらのニュアンスも含んでいて、そこに「ちょっと」とつけくわえることで、そのどちらのニュアンスをもやわらげている。つまり、主人公の鬱屈や閉塞感に対して切迫感や悲壮感を感じて、救おうとしたり逃げ腰になったりするのではなく、それを相対化することによってその重さを軽減するのである。
 そしてその距離感のまま、「姉がいたなら」という近しさで彼女を感じてもいる。それが「別の世界」であろうとも、この精神的姉弟がこの世界にいることは神の御業である。

 主人公の閉塞感によって語り始められた物語は、クラスメイトのバランス感覚によってその鬱屈が相対化され、この世界に在ることの肯定に軟着陸する。そうしたハッピーエンドの物語が、別世界への想像によって生ずる現実への喪失感とともに、ある切なさを伴って語られる。
 見事な物語世界の創造である。 

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