2018年9月30日日曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 2 -境界を失った世界の閉塞感

承前

 まずは冒頭の2行。
終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは
 家出の計画を実行に移してみる
「ひねもす」という耳慣れない(もしくは高校の古典の時間に与謝蕪村の句に使われていたのを覚えている人もいるかもしれない)言葉で歌は始まる。漢字では「終日」と表記されていて、「一日中」という意味だから、これがすぐ後に出てくる「白夜」と響き合って、夜となく昼となく、どうにもはっきりしない、いつともしれない時間が続くのを感ずる。
 世界は境界を失っている。「霧雨」は晴れでなく、さりとてざあざあと降るでもない中途半端な天気だし、「薄明かり」は「白夜」と併せて、昼間でも夜でもない、といって明け方や夕方のように変化しつつあるわけでもない、いつとは知れない時間帯である。そして今日は、週の初めの月曜日や週終わりの金曜や土曜ではない、これもまた中途半端な「火曜」である。
 「白夜」とあるのをそのまま読めば、以下の登場人物が我々のよく知る「高校生」っぽさを湛えているにもかかわらず、これは我々の住む世界の出来事ではないのかもしれない。まさかノルウェーやグリーンランドを舞台にしているとは考えられないから、あるいは異世界を舞台にした物語だということかもしれない。
 またあるいは「白夜(のような)」という直喩が省略された隠喩なのだとすれば、やはりこれは現代の我々が住む日本の話で、今日は朝からずっと霧雨が降り続く、薄暗い一日だったということかもしれない。

 さて、世界把握の定まらないまま物語はすぐに主人公のおかれた状況の説明に展開する。天気のせいか、それともそれとは関係なくなのか、物語の主人公は「気が狂いそう」だという。すぐに続く「家出」という単語から、それがなんらかの鬱屈、生活上の不満のようなものによるのだろうと聴き手は推測する。
 「家出」という言葉は、その行為者が「家」に縛られた存在であることを逆に示している。単身者なら、本人が移動してしまえば後に「家」が残りはしない。家長ならば「失踪」も「出奔」もしようが、その者が家「長」である以上は、言葉の定義上「家出」はしないはずである。だから「家出」するのは「家」に従属する者である。主婦か、多くの場合、子供である。
 「気が狂いそうな」という複雑な内面を備えているところからイメージされるのは中学生以上の思春期の子供であり、すぐ後にクラスメイトがオートバイを持っていることから、これが我々の知っている日本だとすると高校生なのだろうと措定される。
 「気が狂いそう」である理由はその後も具体的には語られない。だから結局、最初の設定に見られる、境界を失ったままいつとも知れぬ時間が続く世界、あるいはそうした世界観に象徴されるような気分そのものが主人公の鬱屈の原因なのだと考えるしかなさそうだ。いつかは週末になって雨が本降りになり、家に引きこもったまま夜になって眠りにつくことも、そしてその後でははっきりと夜も明け、晴れもし、世界を見渡すこともあると信じられない、このまま曖昧な時間が永遠に続くように感じられてしまっているというある種の閉塞感が、主人公の抱える鬱屈なのだろうか。
 だが、そこから逃避するための「家出」は、あらかじめ「計画」されたものであって、衝動的なものではない。「うつす」というのは、「家出」が本人の中で何度もシミュレートされたものであることをうかがわせる。
 そして注目すべきは「うつしてみる」の「みる」である。何度も繰り返されたはずのシミュレーションを実行にうつすにあたっても、なお「みる」と言ってしまう。どこまでもシミュレーションの続きだといい続けるその、本気ではない、あくまでも試すだけなのだという保留に、自分の置かれた状況を、一歩引いて眺める客観性とともに、主人公の躊躇い、怖れもほの見える。

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