2018年9月22日土曜日

『スターリングラード』-精緻に戦闘を描く情熱とは

 ストーリーの跳んでるところがあるぞと思って観終わってから調べてみると、この映画、2時間以上あって、テレビ放送では30分くらいのカットがあるのだった。ああ、また。
 たぶんドラマ的な感動が薄くなってしまったのだろうが、それでもこの映画の作りの高品質なところは充分にわかった。冒頭の戦闘シーンから、もう嫌になるくらい精緻に作られている。嫌になるというのは、先日の『アイ・アム・ア・ヒーロー』をいくら褒めようと思っても、洋画のこういう戦闘シーンは、とにかく桁違いに金と手間がかかっていて、技術とアイデアと構成力も、比較にならないほど質が高いのだった。
 もうどこまでがロケでどこまでセットで、どこまでCGなのかわからないが、スターリングラード市街戦が、かくもあらんやという具合に精緻に描かれる(精緻に事実が再現されているかどうかは知らないが、街がまるごと戦闘の舞台になっていることはわかる。というか、まるごと戦闘の舞台になっている街が、そこに再現されているとは感ずる)。
 そこでは、戦争というのがかくも人命を軽視するもだということが残酷に描かれていたり、権力がどれほど醜悪に保身を図るかが描かれたりする。冒頭近くの上陸作戦では、敵への無謀な突撃命令で、たちまち砲撃で死人の山が築かれていくというのに、退却することを許さぬ上官が、戻ってくる兵士に砲撃を加えて、結局全滅させてしまうという、本当に虚しく腹立たしい戦闘が、実に精緻に描かれる。
 だがこれが映画の本筋ではない。映画はその後、スナイパー同士の、心理戦、作戦、技術戦に重心が移る。
 ジャン・ジャック・アノー監督は、『薔薇の名前』でも、あの手間のかかった迷宮のような図書館を見ても、とにかく質の低いものを作らないというプライドの高いことはわかるが、それが、こういう戦争映画、とりわけ狙撃手同士の駆け引きなどを丁寧に描いた戦闘シーンを描きたい人なのかぁ、と少々意外でもあった。
 そしてこの戦いもまた、実に見事に描かれるのだった。人間ドラマこそ、やや類型的に見えるが、ドイツ軍少佐のエド・ハリスのたたずまいや、美しい外見にも似合わず純朴な人柄を演ずる主人公ジュード・ロウの人物造型は、映画としてやはり素晴らしい達成であると思う。
 そして狙撃手同士の駆け引きはゲーム的な面白さに満ちている。緊迫感も、空間の奥行の感覚も、人物の死の痛みも。
 最後の戦いで、友人の犠牲によって戦いに勝て(それも、三角関係をはさんだ人間ドラマが、まあ類型的ではあるが充分に納得できる論理をもって描かれ)、さて敵がいつ銃弾に倒れるかと思っていると、充分に狙いを定めた銃を構えて、主人公が敵の前に姿を現す。エド・ハリスが認知するより先に銃弾が発射されて、その額に弾痕が生ずるという描写もありうるはずだが、主人公があえて敵の前に姿を現すのは、観ているこちらの期待に適っている。やはり、直接の対峙の瞬間が欲しいのだ。
 だからといって、二人は言葉を交わすわけではない。ただ、エド・ハリスの納得の表情が描かれてから引き金が引かれる必要があるのだ。
 そして倒れた敵は、目を撃たれている。これもまた実に理に適っている。冒頭で子供の頃の主人公の狼狩りの場面が描かれ、そこで祖父が「目を狙うんだ」と言っているのである。そして、主人公が狙撃手として英雄に祭り上げられてから、冒頭の狼狩りの続きの場面が描かれ、そこでは主人公が精神的な弱さから失敗していたことが描かれる。つまり、主人公はようやく冒頭の、自らの弱さを克服したというわけである。
 死んだと思われた恋人が実は生きていて、戦闘が終わった主人公が病院を訪れて再会するという、あまりにベタなハッピーエンドに対する不満もネット上では散見されたが、まあそこだけを言わずとも、この映画は全体として、結構ありがちな論理で展開する物語なのだ。展開としてベタベタでも、病院内を広く見渡す構図の美しさは、やはりこの映画の質の高さを示していると言っていいと思う。

 それにしても、後半の戦いがすっかり個人の男同士の、しかも個人的な人間ドラマを中心にした戦いになって、それこそがこの映画の本筋だというのに、冒頭や途中にもちらちらと、状況としての「戦争」が、これでもかというほど精緻に、大掛かりに描かれるのはなぜなんだろう。狙撃手同士の戦いは、ほとんど西部劇のようなドラマである。それが実際の第二次世界大戦を舞台にしてもいいのだが、その力の入れ具合に、分裂した二つの方向が同居しているように感じられるのはどうしたものか。
 「戦争」をそうまでして再現せずにはいられないその情熱はいったいなんなのだろう。人類としての義務感なのだろうか。

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