2018年9月12日水曜日

『アイ・アム・ア・ヒーロー』-国産ゾンビ映画の健闘

 ネットで前日譚の方を観ていて、そちらは大したことはないと思っていたのだが、本編はどうも評価が高いようなので、いずれ観てみようとは思っていた。どうやらテレビでは放送できないほどのスプラッターらしいのでレンタルで。
 原作は文句なく名作である。ただし結末までは未読で、どうやら風呂敷をちゃんとたたんでないらしい不満があるようなので、この評価は途中までの、マンガとしての力のあるなしを言っているのだが、ともかくも本当に力のある作品であると断言するに迷うことはない。
 ゾンビという設定をしたうえで考えられることを誠実に考えている。いい加減に投げ出したりせずに緻密に考えている。
 主人公のマンガ家アシスタントは、いわばオタクのなれの果てのようなものだろうが、オタクにありがちな「つっこみ」を、作者が自分の作品に対してもしているような気配がある。不誠実であることを許さない矜持と、距離感。
 そのうえで、ちゃんと面白くなる要素がいっぱいつまっているのだ。ゾンビの溢れた世界での生き残りをかけた冒険譚。情けない主人公がヒーローになる成長譚。ぎりぎりのところで「可愛い」と言えなくもないヒロインたちとの恋愛譚。
 そうした要素は映画でもそれぞれ描くことに成功していた。日常が壊れていくときの、どこまで本気になればいいのか迷う感じなどは、原作はものすごく上手かったが、尺のとれない映画でも、かなり上手く描いていた。
 特に、浜松の街中を封鎖しての撮影だという、最初のパニック発生時の場面はすごかった。日本映画でこれをやるのは大したものだと感心。
 特に、パニックの発生して拡大していく「方向」が、観客にもわからないという描き方は新鮮だった。何か良からぬものが、あちらからこちらにやってくるというのではなく、どこからどこへ向かって拡大、進行しているのかわからない街中にいきなり放り出される視点から見た様相は、絵の止まっているマンガでは感じなかった緊迫感だ。
 目の前の惨劇からとりあえず離れようとして走り出すが、それが災害から逃げる方向として適切なのかわからないほど、四方八方から異常事態が押し寄せる。このシーンを撮影した監督の手腕には脱帽。

 一方、完結した映画としては残念な部分もある。マンガと違った大資本のコマーシャリズムが、ヒロイン二人を美人にせざるをえないせいで、彼女らが主人公に寄せる好意が単なるご都合主義に感じられてしまうこととか。そうした好意は物語の終わり、主人公が「ヒーロー」になってからでいいではないか、とも思う。
 また、有村架純の比呂美が「半ゾンビ」になる展開は、続編が作られなければ全く無意味で、といってこの時点で描かなければ続編を作ることが不可能になるし、どこまで原作と独立した物語にするかという興業的見極めが難しいところではあろうが、やはり完結した映画作品としては不完全に過ぎる要素ではあった。

 もうひとつ、ヒーローがヒーローたる存在であるための唯一の行動が、ひたすら銃を撃つことにある(もちろん最後の最後で銃弾が尽きて棍棒として銃が振るわれるのだが、それに特別な意味があるとは思えず、基本的には射撃がヒーローであることの証である)という展開をすんなり受け入れることに抵抗がある。原作ではいろんな展開の中で射撃もするということであり、その行動の全体がヒーローたりうるのだが、映画では、限られた尺の物語の中で、ひたすら射撃が彼をヒーローたらしめているのだ。
 むろん、射撃がいわば「オタク」的スキルであり、それが肉体的に秀でているわけではない彼をヒーローにするために必要な現実的設定であることはわかる。また、射撃が射精の比喩になっているという象徴的設定もわかる。
 だが、全弾撃ち終えて、やや仰瞰で捉えれる背中の丸みが、映像的には見事にかっこ良く撮れていて、それだけでも映画として大成功なのだということはわかるが、それでも、銃による大「虐殺」を偉大な仕事として受け入れるには、日本人である筆者には抵抗があるのだった。

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