2018年9月4日火曜日

『アリスのままで』-分裂する「自分」

 若年性アルツハイマーを患った女性の物語で、主演のジュリアン・ムーアがアカデミー主演女優賞をこれで獲ったとだけ知っていて、観てみると、何か意外なことが起こることのない映画だった。その通り、不穏な前兆から、淡々と悪化する事態が描かれていく。
 もちろんものすごく怖い映画だ。他人事に感じられないところが。
 同時にとても面白い映画だった。途中で飽きたりせずに、先が気になって、見続けたいとはっきり思う、という。そして最後までその緊張感が続く、という。
 テーマ・設定が明らかだから、つまりどんなエピソードを置き、それをいかにうまく描くかだ。最初に、講演の最中にある言葉が思い出せず「単語の集まり」という表現でしのいで、帰りの車の中で「語彙」(英語で何というかわからないが)という単語を思い出す、というエピソードを置く。ここから身につまされる不穏な展開が予想される。次には勤務先の大学のキャンパスを走っているシーンがあって、これは、と思うと案の定、迷う。
 そうして徐々に日常の様々な場面に認知障害の症状が表れる。次はどんなエピソードで、どんな感情を描くんだろうと思うと、興味が引っ張られて、ダレない。もちろん次々と繰り出されるエピソードが、それだけ感情を揺さぶる質に達しているからだが。恐怖だったり切なさだったり束の間の喜びだったり。その数の豊富さに満足する。
 とりわけ大きくて感動的なエピソードといえば患者会での講演会なのかもしれないが、それよりも感情を揺さぶられたのは、診断を受けた初期に、いずれ判断力を失った自分あてに自殺の指南をする動画を撮影しておく、というエピソードだ。
 映画の前半でそのシーンが描かれている時点で、なるほど、病気の進行に備えてそんな準備をするというエピソードの置き方も、上の「数の豊富さ」ではあるが、その決着が後半に描かれる伏線としての機能も巧みであった。そしてそこで発生する感情の大きさも。
 そもそも自分あての質問に自分が応えられなくなったら、という条件でその動画を見るよう設定してあったのに、観たのは偶然で、しかも動画の指示通りに睡眠薬を探すことができないほど症状が進んでいるから、何度も動画を観なおした挙句に、やっと睡眠薬を手にして、洗面所でそれを飲もうとしたところに家政婦さんが来て、そのまま何をしようとしていたかを忘れてしまう。
 このエピソードに揺さぶられる感情がどのようなものかは、にわかにはわからない。だが、まず、自分あてのメッセージを見るというシチュエーションに何か胸騒ぎがした。一人の人物が、画面を挟んで向かい合っていることで、その差異がことさらに際立っている。その変化の中で失ったものがあらわになる。
 そして、自らの死を命ずる自分に応えるのが、命じている自分でいながら、もはや同一人物とは言い難いという点。にもかかわらず、動画を見た彼女は、かつての自分の言うことに素直に従おうとする。それが何を意味しているのかは理解できないまま、自分の尊厳死を実行しようとする。その姿は健気で儚く、言ってみれば「無垢」である。観客はその実行に向けて、失敗を繰り返す彼女を応援してしまう。だから最終的にそれが実行されないことに喪失感を覚える。
 だがかつての自分が守ろうとした尊厳とは、本当に自らの尊厳だと言えるのだろうか。それはその時点での自分の尊厳であって、病状の進んだ時点での、自死を決行しようとしている「現在」の自分の尊厳でもあると、本当に言えるのか。
 家政婦の訪問によってその機会が失われた時、とても「残念な」気持ちがしたのは、周到な準備が徒労に終わることと、そうして守りたかったものが守れなかった悔いだが、同時にそうしてもうしばらく生き続ける主人公をいとおしいと思う気持ちも生じているのだ。
 そうして分裂していく自分(のイメージ)を、どう受け入れていくか、同時に家族としてどう受けれていくか、丁寧に追った映画だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿