2018年9月29日土曜日

ceroの「Orphans」の歌詞を読む 1

 ceroの「Orphans」の歌詞が気になっている。
 歌詞の断片を聴き取るにつれ心が惹かれていくこの感じがなんなのか、しばらく考えてみると、それが驚くほど大量の言葉を生み出していくのを感ずる。それをできる限り正確に捉えて書き留めてみよう。

 基本的に音楽を聴くときには、サウンド(音の感触)、リズム、コード(和音)、メロディーを、どれが決定的だということもなく聴いている。そして基本的には16ビートの、テンションコードを多用したような、途中に転調があったりするような音楽が好きなのである。
 歌物の場合は声もサウンドの一部として重要な要素だし、それがメロディーを奏でているもいる。メロディーは、裏に入ってきたりすればリズムにもかかわってくるし、その音がコード上のどの音にあたるかによって、和音感が変わってくる。メロディーがテンション・ノートにあたっていて、スケールから外れていたりするのも楽しい。
 つまり「歌」は重要だが、それは音楽的な効果として重要なのであって、歌詞を聞くことはほとんどない。
  だが時折、歌詞が聞こえてくる歌がある。もちろん常に歌詞は聞こえているはずだが、それらはいつもは意味のつながりとして意識されていない。それが、意味のつながりとして聞き手の私にとって「意味」を帯びてくる「歌」が、時折あるのである。
 ceroの「Orphans」はそうした歌のひとつだった。
 もちろん最初は音楽として耳を惹きつけたのだった。ワウの効いたギターカッティングに続いて、口笛とエレピで奏でられるリフが始まるだけで、もうその音楽的魅力に囚われてしまう。


 だが、繰り返し聴くうち、その詞=言葉が次第に一つの物語を浮かび上がらせていくのだった。

終日 霧雨の薄明かりが包む 白夜の火曜
気が狂いそうなわたしは 家出の計画を実行に移してみる

冴えないクラスメイトが 逃避行のパートナー
彼は無口なうえに オートバイを持っていたから

サービスエリアで子どものようにはしゃぐ
クラスメイトが呑気で わたしも笑う
弟がいたなら こんな感じかも
愚かしいところが とても似ている

(別の世界では)  二人は姉弟だったのかもね
(別の世界がもし) 砂漠に閉ざされていても大丈夫

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ わたしたちは ここに いるのだろう

終日 乗り回して町に戻ってきた 白夜の水曜
疲れ切った僕は そのまま制服に着がえて学校へと向かう

休んだあの子は 海みて泣いてた
クラスメイトの奔放さが ちょっと笑えた
姉がいたなら あんな感じかもしれない 別の世界で

あぁ 神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて
あぁ 僕たちは ここに いるのだろう

続く

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