2015年2月22日日曜日

『そして父になる』2 「ミッション」の意味

 承前

 子供を血縁に従って取り替えるという選択については、映画の中で「100%の家庭がそうする」と言っていたから基本的にはそういうことなんだろう。現実的なデータを無視してこのような台詞が書かれているとは思えない。そして、自分だったらどうするかと言えば、やはり同様の選択をするだろうと思う。
 それは何も「血か時間か」というような二択ではない。
 そもそも「血」と「時間」は二択として選択が可能な条件を備えていない。「時間」が「これまで」と同様に「これから」も存在し、その中身も一定でないような可変的な要件であるのに対し、「血」は決定的である。遺伝形質の表現の濃淡(子供がどのくらい親に似るか)などということではない。「似ている」などというのは程度問題、つまりアナログだが、「血のつながり」は「ある」か「ない」かというデジタルな要素だということだ。
 「それまでその子と過ごしてきた時間」ももちろん「あるかないか」ではある。だがもう一人の子供との時間もまた同様の可能性として「ある」ことが可能である。それまでの6年間が掛け替えのないものであるのと同様に、これからの時間も掛け替えがないはずである。それらを対置することが可能なようには、血のつながりの「ある」と「ない」とは対置できない。親子という関係が、基本的にはその築き方に応じて可変的であることを認めても、「血のつながり」があるかないかは後から変更が可能な要素ではないということだ。
 つまり、子供の「でき」や親子の関係といった現在の状況に対して、仮に不満があったとして(不満のない親子などあるのだろうか?)、自分の関わり方については反省もし、自分の責任を認めて今後の努力も可能であるのに比べて、「血(別な人間の遺伝子)」に対する不満にはどのような解消もできない、ということだ。
 もちろん実の親子に不満がないというわけではないし、養子であっても円満な親子関係になることもある。だから野々宮家の子供が慶多であってもいいかもしれないが、同様に琉晴であってもいいはずである。とすれば、ありうべき禍根(大いにありそうな危惧)の重大さを考えると、子供を血のつながりに従って収まるべき所に収める方がいいと考えることには相応の妥当性がある。
 真木よう子演ずる斎木家の母親・ゆかりが、福山に「本当の子供ではないとわかっても愛せるか」と問われて「愛せるに決まってる」と答えるシーンの迫力によって真木は恐らくアカデミー賞最優秀助演女優賞を獲ったのだと思われるが、しかしそれならば「本当の子」もまた同様に愛せるはずである。ゆかりが慶多を抱きしめるシーンはどうみてもそのことを示している。

 だが今問題にしたいのは、どちらが「正しい」選択なのか、ではない。自分だったらどうするか、でもない。この映画の描く結論がどちらであるか、だ。
 この映画の結末は単に「取り替える」という選択が間違っていたのだということを示して、この後、慶多を再び野々宮家に戻すことを暗示しているわけではないと思う。
 それよりもむしろ、「取り替える」という選択に伴う「困難」を描くことで、親子という関係の掛け替えなさを逆説的に描いているのである。「父になる」ことは、遺伝子の複製によるのではなく、子供との関係によって「父」という役割を引き受けることによって可能となるのだ、と。
 もちろんこのできごとが慶多との日々の掛け替えのなさをあらためて良多(福山)に思い知らせるとともに、それはすなわち良多に、それまでの自らの父としてのあり方を見直させるきっかけにもなっているのだから、この「困難」は、これからの琉晴との関係を築くことに対して良多が誠実になることで解決していく方向性が示されているのだと考えられる。
 野々宮家を抜け出して一人で斎木家まで帰ってしまった琉晴が、引き取りにいった野々宮家の車の中で見せた横顔は切なかった。
 そして、多くの観客を泣かせたであろう、新しい家庭に馴染んできたかに見えた琉晴が、流れ星への願い事を聞かれて「パパとママの所へ帰ること」と答え、すぐに顔を覆って「ごめんなさい」と言うシーンもまた、琉晴の痛みが観客に理解されつつ、それが乗り越えられる可能性を感じさせるからこそ感動的なのだろう。この「ごめんなさい」の後に、尾野真千子演ずる野々宮妻・みどりの「どうしよう、琉晴が可愛くなってきた」という台詞と共に、慶多への罪悪感が語られる。これは、大人たちが抱えている「困難」を描きつつ、それを乗り越える可能性が開かれていることを表現しているとしか思えない。
 したがって映画が、単に「困難」を避けて「元の鞘に収まる」ことで事態の収拾を図る方向を指し示していると解釈する必然性はない。

 では「ミッションなんかもう終わりだ」はどうか?
 これはどうみても、慶多が斎木家に行くことを指す「ミッション」を「終わり」にすることを意味している。そう宣言して子供と抱き合ったシーンに感動しておいて、しかしそれは一時の気の迷いで、やはり冷静になってみれば、やはり実子を引き取るのが良いと判断するのだろう、などと解釈することは難しい。
 ネットでは、この「ミッション」を「ミッション=向こうの家に行くこと」ではなく「ミッション=パパやママに連絡してはいけない」と解釈することで、実子の引き取りを継続したまま、しかし連絡はとりあう、という結末の解釈もありうるという見解も散見されるが、やはりそれはいささか牽強付会と言わざるをえない。「ミッション」はその一部に「パパやママに連絡してはいけない」という条件を含みつつ、やはり基本的には「斎木家に行くこと」自体を指しているとしか思えない。
 とすれば、やはりこの映画は、親子が共に過ごしてきた時間の掛け替えのなさを描くことで、子供の交換をとりやめ、それぞれ元の家族のもとに子供を戻す物語なのだろうか?

 映画では子供の交換に伴って、大人たちの問題とともに、子供たちの問題もまた解決すべき「困難」として描かれている。子供はこの選択・決定において主体的な意思表示をすることができない。それだけに、子供たちの抱える「困難」はいっそう深刻である。
 この、子供たちの身に起こる「困難」とは、一体何か?
 一つにはむろん、新しい家庭への適応である。今までとは違った生活習慣への適応も勿論様々な「困難」をもたらす。とりわけ、明確な教育方針をもった野々宮家に引き取られた琉晴が、列挙された「ルール」を復唱するシーンは、その後の野々宮家での生活の困難をありありと予想させて息苦しい。
 だが、それよりもデリケートで根本的な問題は、自分の親とか家庭とかいった、人格(アイデンティティー)の根拠となるものが根こそぎ変わってしまうことによる自我の混乱をどう受け入れるか、である。子供の取り違えという事案に対する処置として何が正しい選択か、というような「問題」よりも、実はこの状況の子供たちの心情への想像こそが、映画後半の核となっているように思う。
 上記の「ルール」確認の際に、琉晴が野々宮夫妻を「パパ・ママ」と呼ぶよう要求されて「なんで?」と聞き返すシーンがある。「なんででもだ」と答える良多になおも琉晴が「なんで?」を繰り返して食い下がるやりとりは、この混乱の解消の難しさを実感させる。答えに窮して「なんでだろうな」と呟く慶多もまた、子供ほどではないにせよ、同じようにこの混乱を抱えているはずだ。
 この、子供の抱える混乱に対して、映画はどのような解決の方向を示していたのだろうか。

 良多が斎木家を訪れた際に、「ただいま」を口にする琉晴に、ごく自然に「おかえり」と応ずる斎木父・リリーのやりとりとは対照的に、慶多は良多を避けるように外へ飛び出したかとおもうと、追いすがる良多に「パパなんかパパじゃない」と言って背を向け続ける。この慶多の反応に、観客はそれほど戸惑うことはない。むしろ、ある強い必然性が感じられる。
 それまでの描き方からして、教育志向の強い野々宮家における琉晴よりもよほど、柔らかい空気に包まれた斎木家における慶多のストレスは少ないはずである。とするとこれは、慶多が野々宮家に戻ることを拒否していることを示しているのだろうか。
 むろんそうではない。では何が慶多に、かつての父親への拒否の姿勢をとらせているのだろうか。
 自分が親に「棄てられた」と感じている慶多が、その心の傷の深さの分だけ親を拒絶しているのだろう、ととりあえずの解釈はできる。だが、単に慶多は父親を拒絶することで「棄てられた」という痛みを修復しようと(復讐しようと)しているのだろうか。

 野々宮家では、それが子供に勇気の必要な何かをさせるときの合い言葉として、それを「ミッション」と呼ぶことが通例になっているらしいことが、前半の「お泊まり」(交換の前段階としての一泊の交換宿泊)の際に示される。これが、その行為を「強くなる(大人になる)」ための「任務(ミッション)」なのだと呼ぶことによって子供のプライドにうったえ、それを遂行することに自己肯定感をもたせる効果を狙っているのだということはすぐに感じ取れる。
 だがこの約束には、おそらくもう一つの意味合いがある。それは、それが「ミッション」という「虚構」であることによって、その「現実」の苛烈さに直面することに対するクッションになる、という効果である。
 それぞれの子供を相手の家庭に行かせるのが、一泊のお泊まりならば「ミッション」という虚構を受け入れることで、子供もまた耐えることができる。回数を重ね、期間もおそらく数日間などと延長されて慣れてくればなおさらだ。
 だがいよいよ交換となれば期限はない。その時もまた「ミッション」という言葉によって、良多は慶多を送り出す。「いつまで?」と聞かれて「決まってない」と答える父親に、子供はこれがこれまでの「ミッション」とは違うことを感じとっている。
 その時慶多の感ずる不安は、「ミッション」の終わり、つまり親が迎えに来てくれるのがいつなのかわからないことによる、諦めることも希望を持つこともできない宙吊りのままであるというところに一番のポイントがある。この最終的な取り替えが、それまでのお泊まりと違うのは、どのように自分のアイデンティティーを形成していくかについての決定が無期限で延期されることによって、子供が不安定な状況に置かれ続けることなのである。

 いささか、自らの経験を思い出してみる。
 子供たちが小さい頃、怖かったことの一つは、子供を「待たせる」ことだった。幼児の時間感覚がこちらと同じように構造化されているとは思えないうちは、子供を「待たせ」て親が子供の視界から外れることは虐待に等しいような気がしていた。親が近くにいないことに対して子供が感じているであろう不安や不便を想像したり、その不安が取り返しの付かない事態をもたらすかもしれない懸念を想像すると、いてもたってもいられない感じがした。
 拷問を効果的にするテクニックの一つは、終わりがいつであるかを対象者に知らせないことだという。終わりがわかっていれば、いくらかなりと、その終わりを「待つ」ことでそれに耐えることもできるが、その終わりが示されていない苦痛に耐えるのは難しい。
 子供が成長するにつれて時間の感覚が共有されていき、「待つ」という未来の時間に対する想像の持続力が子供の中で醸成されていく(ように思われる)につれ、こうした子供及び親の不安も解消されていく。「ちょっと待っててね」と言って子供の不安が抑えられるようになるのは、親にとっても実に有り難いことだった。
 「明日になれば」と言って、そうした未来を想像できるようになった子供は、それを支えに今日を生きられる。

 慶多が父親であった良多を拒絶する理由は何か?
 それはおそらく、「待つ」ことについての不安の裏返しなのだ。
 慶多はこれが期限のある「ミッション」ではないことを感じつつも、そのことを確信することがまだできずに宙吊りになっている。そしてそれに決着が着くことをとりあえずは恐れてもいる。「もうお前はうちの子じゃない」という宣言は聞きたくはない。
 といってその宣言を聞くまでは、パパとママに棄てられたのではないかという不安は、絶望を経た諦めによって新しい希望(斎木家の子供として生きること)へと向かうこともできずに、父との約束である「ミッション」によって宙吊りのまま延長されてしまう。
 だから、慶多の父親への拒絶は、自分が拒絶されることを恐れる不安の表れであるとともに、単に自分を棄てた親への拒絶を示しているのではなく、宙吊りの不安への抵抗であり、もっといえば新しい自分のアイデンティティーを宣言しているのではないか?
 そう考えると、「ミッションなんかもう終わりだ」という言葉は、慶多を宙吊りにしていた呪縛から慶多を解き放つという良多の側からの宣言なのだ、という解釈が可能になる。つまり「ミッション」という虚構によってではなく、これからは本当に斎木家の子供として生きていっていいんだと。
 したがって、「6年間はパパだったんだよ」と言われた慶多は、だからこれから元通り、野々宮家で暮らそうと言われているのだと感ずるわけではなく、そうした父親の言葉によって安心することで、あらためて新しい環境を受け入れ、「斎木慶多」として生きていけるようになっていくのである。

 結局「6年間はパパだったんだよ」という台詞を含む最後の斎木家訪問のシークエンスは、「血のつながりよりも過ごしてきた時間の方が大切だ」というテーマを示して、子供たちを元の家に戻すという結末を暗示するために必要だったのではなく、それまでのアイデンティティーの変更を暴力的に要求されたことによって傷ついた子供たちをどう癒し、新しいアイデンティティー形成の場に軟着陸させるかというケアとして必要だったと考えるべきなのではないだろうか。
 とすれば、やはりこの映画の結末は、それぞれの血のつながった親の元で子供たちが暮らしていくという物語の行く末を示していると考えていいはずだ。
 もちろんそうした結末は、「結局血のつながりが大事なのだ」という結論をなんら意味してはいない。「6年間はパパだったんだよ」は、一緒に過ごしてきた時間こそが「親子」を作るのだという認識に他ならない。だとすれば、良多自身の「親子」に対する認識が変わったことによって、慶多との日々の掛け替えのなさが一層証しだてられたとともに、今後の琉晴との関係のあり方が変わることを予想させる結末だと考えることに、なんら無理はないのである。

p.s.
 「ミッションなんかもう終わりだ」→野々宮家に帰ろう。
ではなく、
 「ミッションなんかもう終わりだ」→本当に斎木家の子供として生きなさい。
という解釈が可能であることについては、結構考えた末の発想だったので、密かな自信とともに息子に訊いてみると、奴は一瞬考えてたちまちに思いついてしまったのだった。口惜しい。

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