2015年2月28日土曜日

『昼下がりの情事』

 ビリー・ワイルダーは、同じオードリーなら『麗しのサブリナ』、モンローなら『七年目の浮気』を見ているはずだが、はっきりとたどれるほどの記憶はない。だが知られた「巨匠」だ。観始めてすぐに、こういうのが「映画」だよなあと(まあ『Mr&Mrsスミス』のときにも似たようなことを書いたが)、ハリウッドの厚みを思わされるのだった。映画としての「うまさ」を、当然のように日本映画では真似のできないレベルで見せてくれるのだった。
 もちろん、この間の山田太一の言葉のとおり、邦画のどんなカットにだって、相応の手間がかかってもい、プロの技術によって成り立っていることも想像できる。だが同時に、邦画というのはいつも映画全体は、素人くさい、学生映画の延長のような匂いを残していることも確かだ。
 それが、あるレベルのハリウッド映画は、歴史の厚みとでもいうしかないような、到底どうやってそれを創造しているのか想像もできないといったふうな「映画」的空間を実現しているのだ。それは日本のCG映画がまだはるかに及びもつかない3DCG映画だったり、派手なカーアクションだったりもするが、たとえばこの映画のような小粋なコメディでさえ、その細部にまで映画的美意識が行き渡った演出が、どうにも邦画には真似できないと思わされてしまう。
 それは台詞回しだったり、カット割りだったり、編集だったり。たとえばカメラでいえば、パーティー会場の人並みを縫って歩くゲーリー・クーパーをカメラが追う。パンしてオードリー・ヘップバーンが画面に入ると、今度はオードリーに近づいていくゲーリーと、その動線上に待ち受けるオードリーを画面に収めながら、その中央に画面の焦点が集まる。アップになっていくオードリーの姿の鮮やかさはどうだ。おそらく周囲に比べてピントがそこに合っていること、いくぶん照明が強いこと、周囲が動いているのに対して静止していることなどが相俟ってそうした効果が生まれているのだろうが、ともかく、そういうのがなんともはや「映画」なのだった。
 でもまあ、こういうのは老後の楽しみにとっておいた方がいいのかもしれない。すごいことはわかるが、こういう物語を今、求めているわけではないというか。
 それにしても1957年というと、オードリー・ヘップバーンが28歳、ゲーリー・クーパーが56歳。いくら往年の色男とはいえ、こんなふうにオードリーが惹かれていく設定に無理がないか?

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