2015年2月14日土曜日

『リーガルハイ スペシャル2』

 去年の11月に放送したものだが、ようやく観た。テレビシリーズの1期も2期もすばらしかった古沢良太脚本。古沢作品は既に連続ドラマの『デート』が始まって1ヶ月以上経つが、こちらは録画しておいて、娘の受験が終わったらまとめて観るつもり。どうも録画番組の消化に追われる。
 テレビドラマってのは映画と違って連続で、何時間もの時間をかけて描くところに価値が生まれるのだとは山田太一の主張だが、同じ作者の単発のスペシャルものが、連続のシリーズに比べて出来が悪いのは単に作り手の怠慢ではなく、何かそうなる必然的な作用があるんだろうか。『TRICK』なぞに顕著なように。
 ということでこれもあまり感心しなかった。1期の、村の老人相手への古美門研介の罵倒(といいつつ敬意を込めた鼓舞)も、2期の、岡田将生演じる若い理想主義的な弁護士への罵倒も、堺雅人の高いテンションにつられつつ、やはりそれだけの言葉の力をもっているからこその感動だったのだが、この「スペシャル」の最終弁論ではそこまでの感動を引き起こせなかった。理由はわかる。対抗する価値が充分な強度を持っていないからだ。
 村の老人たちがある種の俗物さや無力感をもっていることに充分なリアリティがあるからこそ、それを覆す古美門の弁舌が強い力を持ちうる。若い弁護士の理想主義が充分な説得力をもっているからこそ、それに対置する価値をぶつけて、物事の多面性を強引に現出させてしまう古美門の言葉が強く聞き手を揺さぶるのだ。
 今回の「スペシャル」では古谷一行演ずる病院長が、権力欲に駆られた俗物に過ぎないように見えて同時に実は「科学の進歩」という価値を表現する存在でもあったというのが、このドラマに特徴的なコペルニクス的転換なのだが、最後のドンデン返しに向けてその「真実」を支える充分な伏線が張られていない。たとえば院長の俗物振りとともに、それだけではないぞと感じさせる面を些細なエピソードやカットで予め見せておく必要があるはずだ。
 同時にそうした価値観の転換をぶつける一方の価値を代弁する役割の大森南朋演ずる弁護士の論理が、どうみても充分な説得力をもたない、視野の狭い人情主義を絶叫するしかないのも残念だった。ここが強い力で対抗しないと、堺雅人の素晴らしい弁舌が充分な力を発揮できないではないか。大森の演技が熱いのも大森のせいではなく(脚本と演出のせいで)白けるばかりだった。
 古谷一行や大森が極端に描かれてしまうのは、テレビ屋の悪い習慣のような気がする。確かに『リーガルハイ』には笑いも価値のうちだし、古美門は極端な描き方をされてもいい。だがそれに対立する価値はあくまで充分に説得力をもって描かれるからこそ、クライマックスの古美門の弁舌の真っ当さに感動が生まれるのだ。

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