2017年1月4日水曜日

バイオハザード『Ⅳ アフターライフ』『Ⅴ リトリビューション』 -不全感の残る大作化

 ゾンビ映画というジャンルにおけるゾンビは、数が多いことが必須条件である。「走るゾンビ」が邪道に思えてしまうのは、ゾンビというのが、一体一体の活動能力においてではなく、数において脅威であるような存在であるべきだと思ってしまうからだ。そうであればこそ、主人公たち人間の知恵と勇気と機転次第で事態を動かすことができるのだ。
 その意味で『人造人間13号』は、走るゾンビではないのに、出てくるゾンビの数が、物語の開始に先立つゾンビが2~3体、登場人物が途中でゾンビになるのが3体くらいという破格の設定なのだが、これは映画の工夫でも何でもなく、ただひたすら低予算のためである。ゾンビの密度が薄いと、ただでさえ屋外を主な展開の舞台としているのだから、いくらでも逃げようがあるではないかという気がしてしまって、そこでゾンビに出会うことがそもそも確率的に不自然に思えてしまう。
 一方で潤沢な予算を使える『バイオハザード』では、CGも含めてゾンビの数には不自由しない。銃撃戦での火薬の量にも不自由しない。
 だが比較的低予算だったというシリーズ1作目は充分に楽しめる佳作だったのに、2作目以降はどれもイマイチなのは残念なことだ。映画の面白さと予算は別段比例しない。
 4作目の『アフターライフ』と5作目の『リトリビューション』を連続して放送したのでまとめて観てみたら、『アフターライフ』の方は観たことがあるじゃないかと子供に指摘された。そうか、そういえば。それくらいの認識なのだ。
 たしかに『アフターライフ』の、シャワー室での処刑マジニとの戦いとか、ビルの屋上から雪崩をうって落ちるゾンビとか、『リトリビューション』の、施設ごとにアメリカやモスクワや東京が、それを模した仮想現実だという設定で切り替わるところとか、映画的魅力に満ちた場面もないではない。
 だが基本的な物語の文法が雑すぎてのめりこめない。例えば強さのインフレ。撃ち合いになってなぜか味方には弾が当たらない確率的不均衡、感情の浮き沈みに一貫性がない不自然さ。
 『リトリビューション』で、前作の生き残りのルーサーが登場してそれなりに活躍するのは嬉しいのだが、戦いの中で死んでしまったあとに、その死には触れられないとか、1作目で鮮烈な印象を残した隊長ワンがあまりに軽く扱われているとか(コリン・サーモンって、すごくいい役者だと思うんだが)、不全感の残るアンバランスさが、いったいどうしたわけだかと、どうにも支持できない印象なのだった。

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