2017年1月17日火曜日

『君の名は』 -IMAXの力か

 突然映画館に行こうという話になった。昨年末から、「君の名は」が年明けにあらためてIMAX上映されるという情報を得て、夏以来スルーしていた超話題作を、今更、のこのこと観に行ったのだった。
 もちろん新海誠には最初から思い入れがある。といって、何事によらず、そのうち、と思っていて「思い入れがある」という言葉とは裏腹に、ここまでの5作品のうち、最近の2作を観ていない。必ず観るつもりはあるが、あくまで「そのうち」である。もちろんビデオレンタルだ。
 だがそんなことを言わずに映画館に行こうと思ったのは、IMAX鑑賞に、他の、テレビモニターで作品を見るだけのいつもの「映画鑑賞」とは違った体験を期待したからだった。平日に休みになった娘を誘って、レイトショー。
 考えてみると、映画館に行くのは、このブログを始めるきっかけになった『マレフィセント』を観て以来である。それ以外はことごとくテレビ放送かレンタル・ビデオなのだ。

 さて、IMAXである。いきなりスクリーンが大きくて圧倒される。予告編が始まる。3Dではないのに、その立体感と音響による臨場感に圧倒される。こいつはいい。レイトショーで、さすがの超話題作も場内はガラガラだ。もうちょっと前の列にすれば、真横の視界にぎりぎり他人が入るのも避けられたのに。惜しいことをした。
 映画本編の鑑賞時間中で最も心をゆさぶられたのは、雲を突き破って頭上に落ちかかる彗星を下から見上げる一瞬の光景だった。その絶望感とスペクタルは、映画作品本体の力なのか上映技術の力なのか。「見上げる」という構図に自分が置かれているという臨場感と容赦のない重低音に体を物理的に揺さぶられる体験。揺さぶれているのは体か心か。

 さて、作品については、くだくだしく言うには準備がなさ過ぎる。面白いことは言を俟たない。映像は素晴らしいし、脚本もよく練られている。入れ替わりのどたばたは楽しかったし、憧れの東京生活は高揚感に満ちていて、主人公たちがようやく会えた場面は感動的だった。そこへ被るRADの曲も単なるBGMではなく、むしろ映画の方がプロモ・ビデオのようである。音楽的な昂揚がある。

 さてこれだけのレベルの作品にしてなお不満がある。全体の高評価を認めつつ、書き留めておく。

 主人公の一人、瀧のキャラクターがわかりにくい。そこに充分な場面なりエピソードなりを費やしていないからだ。描かれるのは三葉の岐阜の生活と、三葉の東京生活ばかり。これは、映画の尺という問題だけではないはずだ。だから二人が惹かれ合っていくことに、充分な共感ができなかった。そこにいたる変化が描かれず、あるとき突然、相手に惹かれ合っているということになっていた。感情移入しにくい。

 後半、災害からの避難に奔走しているはずの長いくだりに、何カ所も、緊迫感の損なわれるアニメ的感情過多表現がはさまれる。何を暢気に。何百人も死ぬかどうかの大惨事を避けられるかどうかの瀬戸際だというのに。
 アニメ的と言ったが、最近観た二つの演劇にも同じような感じを抱いた。そちらでは演劇的な軽みや激情が、場面の論理に合わないのに白けたり苛立ったりしたのだった。仲間同士で軽口たたいてドジっ子なボケをかましあっていると、なんとなく「可笑しな」空気が醸し出されたり、顔を歪めて台詞を叫ぶと、なんだか「劇的」であるような気がしたり。だがそれが物語の論理に整合しているかは吟味されていなくて。
 『君の名は』も同じような、アニメ的「空気」を醸し出すような演出が優先されていて、それが物語の要請する緊迫感を阻害していると感じた。でもそこが面白かったり感動的だったりする場面なのだ、おそらく。宇多丸のよく言う「~げ」というやつだ。「面白げ」「感動げ」とかいう。「~あり気(げ)」という時の「げ」。
 これを入れることで観客の支持を期待するのは、「商品」としては当然なのだが、「作品」としてはありか?
 残念だった。

 もう一つ。入れ替わりという、「とりあえずは非現実的な」設定をして、後は起こりうる事態の可能性を可能な限り論理的に考察するのが、こういうファンタジーの楽しみの一つであるはずだ。『Death Note』しかり『百万畳ラビリンス』しかり。それがないばかりか、多くの観客の当然の疑問であるはずの、そこは知ろうとするはずだろ、場所なり日時なりを、という突っ込みを避ける言い訳が置かれていないのは杜撰の印象を免れない。
 夢だと思っていたから、そこについての関心がなかったというのは最初のうちで、本人たちが入れ替わりを確信してからは、それぞれの世界についての認識があんなに不確かであっていいはずがない。「惹かれあっていく」というのなら、相手への関心があんなに低くていいわけがない。
 それでも「そういうものだ」ということにするには、その違和感自体を登場人物たち本人に、どこかの時点で自覚し、語らせる必要がある。それをしないのは、観客の目を意図的に曇らせておくに等しい。そんな胡乱な認識を受け入れるのが健全な物語享受のあり方だろうか。

 思いの外、不満を書き連ねたが、もちろん面白いという印象の方が全体としては大きかった。そしてIMAXである。良かった。

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